心のデボーション097

デボーション1
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† 心のデボーション 00961

「汝義に過るなかれまた賢に過るなかれ 汝なんぞ身を滅すべけんや   汝惡に過るなかれまた愚なる勿れ 汝なんぞ時いたらざるに死べけんや」 伝道7:16~17 明治元訳聖書

「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか」 口語訳聖書

 「正しすぎる人」

常に自分が正しくなければ気のすまない人もいる。自分が間違っていても、実に巧みに問題をすり替えてしまう。その間違いに気づく人が現われても、本人は少しも慌てない。たちまち周囲の人に働きかけて、その発言を封じてしまうからである。「正しすぎる人」は、自分が否定されることに耐えられず、常に自己を正当化しなければならなくなった人かもしれない。いつも正しい意見をいう人は案外信頼されない。

(†心のデボーション00961)

† 心のデボーション 00962

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「所有からの解放」

天地創造の前に人間は神の中に存在した。神が人間を意思なされ、形づくられた。この時、人間は何も所有しなかった。ただ、神との関わりが存在した。

人類が「人間とは何か」という問いに、「所有」という答えを見出したことは人間最大の不幸である。物に限らず、才能、知識、能力等、すべては所有の対象であり、持てる者が持たざる者を支配した。

聖書は人間を所有によって判断しない、人間は「関係」において存在し、「所有」ではなく「関係」を問われる存在である。ここに人間ははじめて「所有によらずに」存在するものを自己とすることが始まる。聖書は所有の問題から人間を決定的に解放する福音である。

(†心のデボーション00962)

† 心のデボーション 00963

「相知(あひし)る」 マタイ1:25 大正文語訳聖書

「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」 新共同訳聖書

 「相手を知る」

「知る」を意味するギリシャ語「γινώσκω ギノースコー ginōskō {ghin-oce‘-ko}」は「経験する」の意味をあわせ持つ言葉である。「相手を知る」は関係における認識を意味する。だが、人は相手を全くは経験するわけではない。神は私を全く知られる(経験される)が、私は神を全くは知らない(経験することができない)のである。

(†心のデボーション00963)

† 心のデボーション 00964

「汝等しづまりて我の神たるをしれ」 詩篇46:10 明治元訳聖書

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」 口語訳聖書

 「静まって」

英語で「孤独」を意味する「ロンリネス loneliness」と「ソリチュード solitude」がある。「ロンリネス loneliness」が人里離れた寂しさを意味するのに対して、「ソリチュード solitude」は自ら進んで一人になることを意味する。

ソロsolo(一人、単独)になれる人のことである。ソロになれる人は他者と結ばれる力のある人でもある。

(†心のデボーション00964)

† 心のデボーション 00965

「かくて我が走りしところ勞せしところ空しからず、キリストの日にわれ誇ることを得ん」 ピリピ2:16 大正文語訳聖書

「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」 口語訳聖書

 「やればできる」

「やればできるじゃない」ということばには、「次もできるはず」という暗黙の脅迫が含まれている。一つの戦いの傷を癒す間もなく、もう次の戦場に送り込む。

「できない」と言わせない世界では、たった一回の失敗ですべてが崩れることもある。人は負けたり、後退したりすることがあって、はじめて、前進できる。「努力すれば何でもできる」とは自分に聞かせるものであっても、他人に向けることばではない。

(†心のデボーション00965)

† 心のデボーション 00966

「かくて天に戰爭おこれり、ミカエル及びその使たち龍とたたかふ。龍もその使たちも之と戰ひしが、」 黙示12:7 大正文語訳聖書

「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが」 口語訳聖書

 「聖なる戦い」

サタンはここで、七つの頭と十の角をもち、その頭には七つの冠をかぶる「大きな赤い竜」と呼ばれる。「竜」の語源は「鋭く見る者」である。

サタンは世界の状況を鋭く見て、神に絶え間なく人間を告発する。悪にも本質を見抜く力がある。その目的は破壊である。天には、ミカエルと竜の戦いがあり、遂に竜は「底知れぬところにつなぎとめられ」る。聖なる戦いは私たちの内にもある。

聖なる戦いにサタンは「勝てなかった」。(黙示12:8)

(†心のデボーション00966)

† 心のデボーション 00967

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「事の初め」

聖書は冒頭に「始めに、神は」の御言葉を置く。

信仰はことの初めに神を見る。

事の初めに神を見たら、直ちに始めよ。

(†心のデボーション00967)

† 心のデボーション 00968

「さとき訓と公義と公平と正直とをえしめ」 箴言1:3 明治元訳聖書

「思慮深い教育を受けて、正義と公正と公平とを体得するためのものであり」 フランシスコ会訳聖書

 「正義と公平と正直」

「神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ」 ヨブ記22:22 新改訳聖書

「正義と公平と正直」を留め置く場は「頭」ではなく「心」である。

(†心のデボーション00968)

† 心のデボーション 00969

「磐間にをり 斷崖の匿處にをるわが鴿よ われに汝の面を見させよ なんぢの聲をきかしめよ なんぢの聲は愛らしく なんぢの面はうるはし」 雅歌2:14 明治元訳聖書

「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」 口語訳聖書

 「心地よい声」

結婚するときに、相手の声が心地よく響くかどうかを自問してみるとよいという。配偶者の声を「心地よく、好ましく」思える夫婦なら、たとえ人生の危機に遭遇しても夫婦で乗り越えることができるということである。

この場合、声楽家の「美声」なら心地よいというものでは勿論ない。

(†心のデボーション00969)

† 心のデボーション 00970

「そはなんぢわが助となりたまひたれば 我なんぢの翼のかげに入てよろこびたのしまん」 詩篇63:7 明治元訳聖書

「あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う」 口語訳聖書

 「神の助け」

ある日、一匹のアリが砂に足をとられた。サラサラした砂は頼りなく、もがけば斜面をすべる。蟻地獄にはまったのだ。すり鉢の底にはウスバカゲロウの幼虫が砂に姿を隠して、口を大きく開けていた。捕えられれば血を吸われてしまう。蟻が助かる方法はただ一つ、斜面を登るのではなく、そこに穴を開けて潜ることである。しかし、穴を掘ることにかけては並ぶもののないアリなのに、なぜかその与えられた助けに頼ろうとしない。それとも、頼ろうとしても、できないのだろうか?

(†心のデボーション00970)

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