心のデボーション096

デボーション1
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† 心のデボーション 00951

「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書

「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」 口語訳聖書

 「愛に溺れず」

The evil of good and evil is conscious when loving, and the good of good and evil is conscious when hating it.(愛してその悪を知り、憎みてその善を知る)

とかく愛はその悪を隠し、憎しみはその善を隠す。愛や憎しみはしばしば真実の基準を見失わせる。愛して愛に溺れず、憎しむにその意味を見失わないことだ。

(†心のデボーション00951)

† 心のデボーション 00952

「また彼に根ざしてその上に建てられ、かつ教へられし如く信仰を堅くし、溢るるばかり感謝せよ」 コロ2:7 大正文語訳聖書

「キリスト中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」 新改訳聖書

 「感謝の祈り」

「感謝 εὐχαριστία エウかリスティア」は「感謝の祈り」で、この言葉は「主の聖餐」の意味にも用いられる。

「εὐχαριστία」の中核となる「χαρισ 恵み」は人間が経験する最も香しい恵みをあらわす。「願う」と「受ける」は同時である。

「この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし」 マルコ11:24 大正文語訳聖書

(†心のデボーション00952)

† 心のデボーション 00953

「坑を掘る者はみづから之におちいり石垣を毀つ者は蛇に咬れん」 伝道10:8 明治元訳聖書

「穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる」 新改訳聖書

 「石垣をくずす」

不用意に石垣を崩すと、そこに潜んでいる蛇に噛まれるおそれもある。「石垣」は、他人との境界に築かれる。思わぬ反撃にあうのは、その境界に気づかず、踏み込み過ぎたのかもしれない。自分の境界にも「蛇」がすみついているのを忘れないことだ。蛇は他人であれ自分であれ、近づいてそれを崩す者を噛む。「蛇」を恐れて、境界に近づこうとしないのも困る。注意してやれば、蛇は自分の方から逃げていくのが普通である。

(†心のデボーション00953)

† 心のデボーション 00954

「されど子の生るるまでは、相知(あひし)る事なかりき」 マタイ1:25 大正文語訳聖書

「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」 新共同訳聖書

 「聖別」

ヨセフとマリヤは正式な婚姻関係に入ったが、二人はイエスが誕生するまで通常の夫婦関係を遠ざけて過ごしたようだ。そのようにして彼は、「聖なる期間」として時を聖別したのであろう。これはマリヤとヨセフにのみ奉げることのできる信仰であった。

(†心のデボーション00954)

† 心のデボーション 00955

「また我らの間には我ら二箇の上に手を置べき仲保あらず」 ヨブ9:33 明治元訳聖書

「われわれの間には、われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない」 口語訳聖書

 「仲裁者」

「挨拶は時の氏神」(The person who greets it is like the time god.)という。仲たがしたとき間に入ってくれる人の存在はありがたい。「仲裁は時の氏神」ともいう。

ヨブは潔白を理解しない友との間に「仲裁者」がいないことにも苦しんだ。

(†心のデボーション00955)

† 心のデボーション 00956

「われ汝らがキリスト・イエスに在りて神より賜はりし恩惠に就きて、常に神に感謝す」 Ⅰコリント1:4 大正文語訳聖書

「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している」 口語訳聖書

 「歩調のあわない日」

二人で歩んだ道が長ければ長いだけ、喜びが深くなるのが夫婦である。長い道を歩いてくれば歩調のあわない日もある。そんな日は少し離れて、ただ変わりゆく景色を見ながら歩いてみる。気がついたら、相手の姿が見えなくなって、あわてて走り出したら、相手は道端で待っていてくれたりする。そんなことをしながら、相手に神の恵みを見出し、それと結ばれていることを喜ぶ。何しろ二人は夫婦なのだから。

(†心のデボーション00956)

† 心のデボーション 00957

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「存在のはじめ」

「私」という存在をどこから始めたらよいか?

聖書は「私」という存在をについて、わたしを天と地の創造に連れていく。しかし、それが「私」の原初ではない。神は創造の前に、まず、御自身の内に「私」という存在を意思された。天と地の創造に先立って、神の内に「私」はあった。

その後、宇宙は創造された。

「私」という一個の存在は全宇宙を説明するもなお足りない。

「山いまだ生いでず汝いまだ地と世界とをつくりたまはざりしとき 永遠よりとこしへまでなんぢは神なり」 詩篇90:2 明治元訳聖書

(†心のデボーション00957)

† 心のデボーション 00958

「舌は火なり、不義の世界なり、舌は我らの肢體の中にて、全身を汚し、また地獄より燃え出でて一生の車輪を燃すものなり」 ヤコブ3:6 大正文語訳聖書

「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる」 口語訳聖書

 「舌を制する者」

「開いた口には戸は立たない。I cannot prevent it if told.」という。「人の口に戸は立てられぬ」ともいう。

箴言は「自分のくちびるを制する者は知恵がある」と語る。(箴言10:19 口語訳聖書)しかし、舌を制することは誰にもできない。(ヤコブ3:8)

(†心のデボーション00958)

† 心のデボーション 00959

「汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん」 マタイ6:14 大正文語訳聖書

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」 新共同訳聖書

 「次の三十年間」

ユダヤの格言に「結婚ははじめの三週間互いに観察し合い、次の三カ月愛し合い、次の三年間けんかして過ごし、次の三十年間を赦し合っておくる」というのがある。

「赦す」は「解放する、自由にする」という意味である。あきらめることではない。

自分の思いを押し付けず、ありのままに互いを解放する。それには、次の三十年のほぼ全てを注がなければならないかもしれない。

(†心のデボーション00959)

† 心のデボーション 00960

「されど子の生るるまでは、相知(あひし)る事なかりき」 マタイ1:25 大正文語訳聖書

「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」 新共同訳聖書

 「相知る」

ヨセフはイエスが生まれるまでマリヤを「知ること」はなかった。「知る」のラテン語訳は「cognoscebat」で「知る、認識する、承認する、知ろうとする、尋ねる、探究する」の意味がある。

ヨセフとマリヤの間には「それ以上は尋ねない」という領域が存在した。成熟した愛はすべてを明らかにしようとはしない。それが自ずから姿を現すまでは触れようとは思わない。それもまた共有の一つの形である。ヨセフとマリヤは、そうすることで互いに充たされていた。

(†心のデボーション00960)

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