心のデボーション094

デボーション1
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† 心のデボーション 00931

「『見よ(驚くことに)、おとめ(処女)が子を宿して(身ごもって)子(息子、男の子)を産む。そしてその名はインマヌエルと呼ばれる』 訳すと、『彼は我らと共におられる(我らの中央におられる)神である』である」 マタイ1:23 私詳訳

 「根源にいます神」

「インマヌエルの神」は「我らの中央におられる神」である。神は存在の「中央」に在す。神の在すところ、そこが「中央」である。中央とは根源のことである。

(†心のデボーション00931)

† 心のデボーション 00932

「みよ子輩はヱホバのあたへたまふ嗣業にして 胎の實はその報のたまものなり」 詩篇127:3 明治元訳聖書

「子供たちは主の賜物。胎内の子は授かりもの」 フランシスコ会訳聖書

 「主の賜物」

子どもは自分の親の嫌な面を見て、それを嫌がったり迷惑に思うことに罪意識を感じることもある。自分を罰する子どもほど、親の嫌な面を逆に取り入れてしまう傾向がある。そして、自分が嫌な生き方しかできないと腹を立てる。自分を嫌うというよりも、嫌なものに同一化しなければ生きられない自分に怒るのである。その意味で、母親が子どもに自分を愛させるようにしむけるのが罪であることもある。

子どもは「主の賜物、授かりもの」である。

(†心のデボーション00932)

† 心のデボーション 00933

「汝の手善をなす力あらば之を爲すべき者に爲さざること勿れ」 箴言3:27 明治元訳聖書

「あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな」 新改訳聖書

 「本当の援助」

困っている人に手を差し出すのが援助だが、貸そうとした手を閉じるのも援助である。本当は自分で立ち上がれる人なのに、いつも手が差し出されるので、ついすがってしまうのかもしれない。そんな場合には、手を出さないのが本当の援助になる。いつ手を貸し、いつ閉じるかは、相手にとってなにが「善」かということから判断すればよい。手を閉じることが必要なら、それを拒まないことである。

(†心のデボーション00933)

† 心のデボーション 00934

「なんぢら愼みをののきて罪ををかすなかれ 臥床にておのが心にかたりて默せ」 詩篇4:4 明治元訳聖書

「恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ」 新改訳聖書

 「心の病」

「心の病は台風のようなもの」という考えもある。(中沢正夫) 「被害を軽くし。過ぎ去ったらすばやく立ち直る、進路予測は対策の第一」(中沢正夫「なにぶん老人は初めてなもので」)。

しかし、長々と居座るものもある。「通過する」のを待つだけというのもつらい。「いつか通過する」という思いとは別の対策が求められる。

(†心のデボーション00934)

† 心のデボーション 00935

「なんぢらは天國の奧義を知ることを許されたれど、彼らは許されず」 マタイ13:11 大正文語訳聖書

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」 新共同訳聖書

 「奥義」

「天国の奥義(秘密)」は「μυστήριον ミゆステーリオン」で、この語は「口を閉じる μυειν」からきている。それをあずかる者は口を閉ざしてその秘密を厳守することが求められた。その違反者は死をもって罰せられたという。神のことばはいたずらにあつかってはならない。

(†心のデボーション00935)

† 心のデボーション 00936

「汝らは世の光なり。山の上にある町は隱るることなし」 マタイ5:14 大正文語訳聖書

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」 新共同訳聖書

 「山の上にある家の光」

英語で「山の上にある町 A town put on a hill」は「仰ぎ見るべき手本」の意味に用いられる。

「山の上にある家の光」にその自覚はない。

(†心のデボーション00936)

† 心のデボーション 00937

「至高く至上なる永遠にすめるもの聖者となづくるもの如此いひ給ふ 我はたかき所きよき所にすみ 亦こころ碎けてへりくだる者とともにすみ 謙だるものの靈をいかし碎けたるものの心をいかす」 イザヤ57:15 明治元訳聖書

「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。』」 口語訳聖書

 「カニの穴」

カニは甲羅に合わせて穴を掘ると言う。心の病気になる人は、大きすぎる穴を掘ろうとしたり、小さな穴に無理に入ろうとしてあがくようなところがある。甲羅が問題ではなく、自分というものが見えなくて、ほどほどのところで折り合うことができないのが問題である。

へりくだった人は自分を知っていて、その在り方を喜び、自分は何にもできないなどと悩んだりしない。自分の甲羅がいかほどのものか、カニはどうやって知るのだろうか。

(†心のデボーション00937)

† 心のデボーション 00938

「『視よ、處女みごもりて子を生まん。 その名はインマヌエルと稱へられん』 之を釋けば、神われらと偕に在すといふ意なり」 マタイ1:23 大正文語訳聖書

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 新共同訳聖書

 「探したもう主」

イエスは「インマヌエル ᾽Εμμανουήλ」と呼ばれた。「共にいます神」という意味である。イエスは傍観者ではなく、人を探し求めて止まないが故に「インマヌエル」と呼ばれる。

若い人は「人が怖い」といい、子どもは「友達が怖い」という。自分を支える真の人間関係がなければ、その怖さから立ち直ることはできない。自分を探し求める人との出会いがないと嘆いてはならない。人はすでに出会っているのだから。

(†心のデボーション00938)

† 心のデボーション 00939

「愛する者よ、われら互に相愛すべし。愛は神より出づ、おほよそ愛ある者は、神より生れ神を知るなり」 Ⅰヨハネ4:7 大正文語訳聖書

「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。」 口語訳聖書

 「愛を伝える」

愛することよりも愛を伝えることの方が難しい。子どもは自分の望むようなかたちで愛されたいと思い、親は子どもの幸せと思う愛し方をし、両者が一致するのはめったにない。愛は神から出る。真実の愛は、いつも、私たちの知らないかたちの中にあって、驚く。何が愛かを決めるのは難しいことであると。ただ、わかるのは、伝わらなくても愛し続けるのが愛だということである。

(†心のデボーション00939)

† 心のデボーション 00940

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「創造の継続」

神によって創造された「天と地」を、神は常に「天と地」を「新たに」創造される。神は「摂理の神」である。

「なんぢ霊をいだしたまへば百物みな造らるなんぢ地のおもてを新にしたまふ」 詩篇104:30 明治元訳聖書

(†心のデボーション00940)

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