心のデボーション093

デボーション1
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† 心のデボーション 00921

「事の終はその始よりも善し 容忍心ある者は傲慢心ある者に勝る」 伝道7:8 明治元訳聖書

「事の終わりはその初めに勝り、耐える心は驕り高ぶる心に勝る」 フランシスコ会訳聖書

 「成功から降りる梯子」

頑張って成功した人は、そこから降りることを考えていないものだ。状況が変わっても、なお自分を中心に位置づけようとして頑張る。成功から降りる梯子は自分で用意しなければならない。「梯子をはずされた人」は、梯子を上るための道具としてしか見ていないために、それを降りるための道具として使うことができない。

「事の終わりは、その初めにまさる」と信じられる人だけが、登った梯子を降りる道具として使う方法を知っている。上った梯子が降りる梯子である。上り下りそれぞれ別の梯子があるのではない。

(†心のデボーション00921)

† 心のデボーション 00922

「Nobiscum Deus 神は我々と共におられる」 マタイ1:23 大正文語訳聖書

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 新共同訳聖書

 「並んで助ける」

「偕 とも」は「人」をあらわす「亻」+「皆」で、「皆」は「比 (並ぶ)」の下に「白 (白は「自」)で 助ける」と書く。「ある人と並んで助ける」こと。

神は「助けようとして」私と並んでいまし給う。

(†心のデボーション00922)

† 心のデボーション 00923

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「創造の神」

神は人間に「創造の神」として自己をあらわし給う。このことは、人間にとって神は自己との関係においてのみ存在をあらわされることを意味するのである。

人間は自らの存在をもって神を証し、生きた認識のうちに神を知る。

(†心のデボーション00923)

† 心のデボーション 00924

「されど御靈の果は愛・喜悦・平和・寛容・仁慈・善良・忠信・柔和・節制なり。斯かるものを禁ずる律法はあらず」 ガラテヤ5:22~23 大正文語訳聖書

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」 口語訳聖書

 「踏まれて咲く花」

藤は根元を踏んでやらないとよい花をつけない。藤棚の下が子ども達の遊び場なのはそのためでもある。麦も踏まれてよい実をつける。踏まれて美しく咲く花があり、踏まれて豊かに結ぶ実もある。「御霊の実」は、踏まれることも踏みつけることも必要としないが、踏まれる時に強く輝くのは間違いない。踏みつけられたら、それを花とし実と結ぶことだ。

(†心のデボーション00924)

† 心のデボーション 00925

「こは人に智慧と訓誨とをしらしめ哲言を暁らせ」 箴言1:2 明治元訳聖書

「これは知恵を知り、教育を与え、悟りの言葉を深く知るためのものであり」 フランシスコ会訳聖書

 「深く知る」

「深く知る」は「物事を識別する、その意味を明らかにする」の意味である。

人間は物事のすべてを知るわけではない。神が現わされるものと、隠される事柄がある。現わされたことを知り、隠されたことは隠されるままに理解することが「深く知る」ということである。

(†心のデボーション00925)

† 心のデボーション 00926

「その名はインマヌエルと稱(とな)へられん」 マタイ1:23 大正文語訳聖書

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 新共同訳聖書

 「足跡」

  あしあと  Margaret Fishback Powers

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。

—- Margaret Fishback Powers

(この詩はかつて作者不詳で、英語、日本語ともにいくつかのバージョンがあったが、現在は、原作、日本語翻訳ともに著作権が認められている)

(†心のデボーション00926)

† 心のデボーション 00927

「幸福(さいはひ)なる望、すなはち大なる神、われらの救主イエス・キリストの榮光の顯現を待つべきを我らに教ふ」 テトス2:13 大正文語訳聖書

「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光の現われを待ち望むようにと教えさとしたからです」 新改訳聖書

 「祝福された望み」

「幸福(さいはひ)なる望」は「祝福された望み」(新改訳)である。

新春に耕作をはじめるに先立ってその年の豊作を願って前祝いするのを「予祝」という(田打ち正月、田遊び)。英語にもcelebrating in advance advance blessing という言葉がある。

「祝福された望み」は、受け取る先にあらかじめ祝ってしまう手もある。

(†心のデボーション00927)

† 心のデボーション 00928

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「天と地」

人間の存在に先立って、神は「天と地」を創造された。人間は「地」に属するとともに「天」を持ち、存在の根源を「天と地」の世界に求めるものである。

「天と地」は二つの別れた世界ではなく、天は地に、地は天において知られるのである。

「地」は「天」を離れることなく、「天」は「地」を失うこともない。「天」は「地」を離れてはならず、「天」を失った「地」は虚しい。人間は「天と地」の調和のもとに生きる。

「もろもろの天は神のえいくわうをあらはし 穹蒼はその手のわざをしめす
この日ことばをかの日につたへこのよ知識をかの夜におくる
語らずいはずその聲きこえざるに
そのひびきは全地にあまねく そのことばは地のはてにまでおよぶ 神はかしこに帷幄を日のためにまうけたまへり」 詩篇19:1~4 明治元訳聖書

(†心のデボーション00928)

† 心のデボーション 00929

「さらば大牧者の現れ給ふとき、萎まざる光榮の冠冕を受けん」 Ⅰペテロ5:4 大正文語訳聖書

「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」 新共同訳聖書

 「アマランス」

アマランスはなかなか枯れず、しぼんでも水に入れると生き返るという伝説的な不死の花である。「しぼむことのない栄光の冠」は、このアマランスで編んだ冠をさす。

アマランスはキリストを信じる心に静かに咲く。心がどのように渇いても「生ける望み」という花をあでやかに咲かせ続ける。アマランスをよみがえらせるのは、キリストの「生ける水」に違いない。

(†心のデボーション00929)

† 心のデボーション 00930

「名は美膏に愈り 死る日は生るる日に愈る」 伝道7:1 明治元訳聖書

「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる」 新改訳聖書

 「死なば十月中十日」

「死なば十月中十日」という。死ぬのなら秋の蚕が終わり、稲刈りには少し時間のある日にしたいという意味である。「死なば四八月」といえば、どうせ死ぬのなら気候のよい四月、八月(陰暦)がいいということで、「死なば三四月花の頃」というのもある。気持ちのよい季節に人に迷惑をかけなうように死にたいという気持ちである。

(†心のデボーション00930)

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