† 心のデボーション 00911
「艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん」 箴言31:30 明治元訳聖書
「麗しさは偽り、美しさはむなしい。しかし、主を畏れる女はほめたたえられる」 フランシスコ会訳聖書
「世界で一番美しいのは誰?」
鏡に向かって「世界で一番美しいのは誰?」と聞く心は醜い。まして、「美しければ思いのまま」にいたっては、むなしさを超える。逆に「私はブスだ」と言い張るのも謙虚とは思えない。人は自分の美しさを忘れている時が、最も美しい。
(†心のデボーション00911)
† 心のデボーション 00912
「アブラハム其處をヱホバエレ(ヱホバ預備たまはん)と名く是に縁て今日もなほ人々山にヱホバ預備たまはんといふ」 創世記22:14 明治元訳聖書
「アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」 新共同訳聖書
「アブラハムはその所を『ヤーウエ・イルエ』と名づけた。それで今日でもなお『ヤーウエの山で計らわれる』と言われている」 フランシスコ会訳聖書(昭和33年版)
「神の計らい」
フランシスコ会訳(昭和33年版)は「備える」を「はからい」と訳す。アブラハムははからいをしない人だった。イサクを全焼のいけにえとしてささげよという神のことばに、黙して従う。「神自らが燔祭の子羊をはからわれる」と信じたからである。人は自らのはからいを止めることによって、神のはからいに出会う。はからいを忘れることによって、よりまさるはからいが働き始める。備えはすでになされている。
(†心のデボーション00912)
† 心のデボーション 00913
「その名はインマヌエルと稱(とな)へられん」 マタイ1:23 大正文語訳聖書
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 新共同訳聖書
「インマヌエル」
マタイ福音書の冒頭で「インマヌエル」と呼ばれたイエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」をもって福音書を閉じる。マタイ28:20 新共同訳聖書
「私」の始めに「インマヌエル 共におられる」と宣言なさる神は、「私」の終わりまで「いつも共にいる インマヌエル」神である。
(†心のデボーション00913)
† 心のデボーション 00914
「その世にある日には常に憂患あり その勞苦は苦し その心は夜の間も安んずることあらず 是また空なり」 伝道2:23 明治元訳聖書
「一生、人の務めは痛みと悩み、夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ」 新共同訳聖書
「価値ある苦労」
伝道者は自分の苦労がいつかその価値のわからない者の手に渡ることにむなしさを感じる。現代は多くの若者が価値ある苦労を見出せないことにむなしさを感じている。それが苦労するに価するかどうかは、やってみなければわからない。その苦労を人が価値あるものと認めるかどうかも、やってみなければわからない。やらないで悩むよりも、やりながら悩む方がずっとよい。
(†心のデボーション00914)
† 心のデボーション 00915
「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書
「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書
「神の創造」
「創られた בּרא バラー 」というヘブライ語の動詞は聖書においては神の創造に用いられ、人間の行為として用いられることはない。
そのことは、地は人間の行為によって形成されず、すべての事柄の背後に神を原因とする創造のあることを知らせるのである。神がはじめ、神が終わりとなり給う世界。
(†心のデボーション00915)
† 心のデボーション 00916
「モーセその杖を皆律法の幕屋の中にてヱホバの前に置り」 民数17:7 明治元訳聖書
「モーセはそれを掟の幕屋の主の御前に置いた」 新共同訳聖書 民数17:22
「指導者へのつぶやき」
事件はモーセとアロンが「分を超えている」という批判から生じた。そこで、イスラエルは父の家ごとに一本の杖をとり、あかしの箱の前に置くように命じられた。
指導者への「つぶやきと不平」を主の前に置かなければならない時がある。その手にある杖が花をつけ、実を結ぶかどうかが、神の選ばれた指導者の証である。つぶやきと不平は十字架の下に置くことで「全く」消える。
(†心のデボーション00916)
† 心のデボーション 00917
「預言は人の心より出でしにあらず、人々聖靈に動かされ、神によりて語れるものなればなり」 Ⅱペテロ1:21 大正文語訳聖書
「なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」 新共同訳聖書
「主の預言」
預言は「主の預言」である。預言者が尊いのではなく、彼の口からかたられた「みことば」が尊い。神の人はみな神の器であって、尊いのは器でなく、器にもられたことばである。
神のことばは人を「διά ディア 通って、通り抜けて、を経て」、人に伝えられる。
(†心のデボーション00917)
† 心のデボーション 00918
「ヱホバ神エデンの東の方に園を設て其造りし人を其處に置たまへり」 創世記2:8 明治元訳聖書
「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」 口語訳聖書
「置かれたところ」
結婚を機に社会から断ち切られたような不安と焦りを感じる女性も少なくない。自分が意味あることを何もしていないばかりか、一人取り残されたような寂しさを感じるのだ。しかし、夫が自分の悩みを真剣に聞いてくれないからと、夫婦の絆まで疑うべきではあるまい。社会から断ち切られたのではなく、自分が置かれたところで社会を見出すことがまだできていないのではないだろうか。社会とは、まず、生活の事である。
神は私に「東のかた、エデンに一つの園」を設け給う。
(†心のデボーション00918)
† 心のデボーション 00919
「神よねがはくは我をさぐりてわが心をしり 我をこころみてわがもろもろの思念をしりたまへ」 詩篇139:23 明治元訳聖書
「神よ、わたしを調べて、わたしの心を知り、わたしを試して、わたしの思いを見極めてください」 フランシスコ会訳聖書
「愛の禁断症状」
麻薬のように愛を求める人もいる。愛の禁断症状に耐えられず、次々と新しい愛を求め、別れた人を追いかけて不毛の愛にしがみつく。自分という存在に空虚さがあって、それが苦悩の愛を呼び寄せるのだろうか。空しさと向き合う、そのつらさから逃げないことだ。悲しければ泣く、悲しみを言葉にする、それが祈りである。
(†心のデボーション00919)
† 心のデボーション 00920
「Nobiscum Deus 神は我々と共におられる」 マタイ1:23 大正文語訳聖書
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 新共同訳聖書
「我等のうちにおわす神」
「インマヌエル ᾽Εμμανουήλ」はラテン語で「Nobiscum Deus God with us」と訳される。
「神(かみ)われらと偕(とも)に在(をる)」 明治元訳
「神われらと偕に在す」 大正文語訳
「我等と偕に在す神」 ラゲ訳
「神我等と偕にする」 日本正教会訳
「我等のうちにおわす神」 永井直治訳
神は私と偕に在し、在すところを偕にし、私のうちに「おわす」お方である。
(†心のデボーション00920)
コメント