心のデボーション091

デボーション1
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† 心のデボーション 00901

「ここにバルサバと稱へられ、またの名をユストと呼ばるるヨセフ及びマツテヤの二人をあげ」 使徒1:23 大正文語訳聖書

「そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、」 口語訳聖書

 「安息の子」

十二使徒からユダが欠けたのを補うために、バルサバとマッテヤが立てられた。そしてマッテヤが使徒に加えられ、バルサバは選ばれなかった。しかし、選ばれなかったことでバルサバの心は騒がなかったと想像する。それというのも、バルサバの名は「安息の子」という意味だからである。崩れない人だからこそ、教会はバルサバを立てたのではないか。バルサバはこれで聖書から姿を消す。しかし、私の心から彼の名が消えることはない。

(†心のデボーション00901)

† 心のデボーション 00902

「神光あれと言たまひければ光ありき」 創世記1:3 明治元訳聖書

「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった」 新共同訳聖書

 「創造の力」

神が「光あれ」と言われると「光があった」。(創世記1:3) 「ことば」は創造の力である。すべてのことは神の口からでることばにはじまる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)

「私」は神の言によってわたしに来る。「私」に起こることで意味のないことは一つもない。それらは「成就」し「実現」するのである。「私」とは神の創造の縁に立つわたしのことである。

(†心のデボーション00902 マタイ1:22)

† 心のデボーション 00903

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書

「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書

 「創造の神」

神は創造の神である。生起するすべてのものは神によって創造される。

「‎בּרא バーラー」は旧約聖書ではすべて神による創造に用いられる。創造は神に属する業である。

今日私の身におこるすべての出来事は神から来るのであり、意味のない出来事は一つとしてない。しかし、人間は意味の全体を知らない。人間は意味を求める者であり、意味を求めることにおいて人間である。

(†心のデボーション00903)

† 心のデボーション 00904

「ヱホバ言給ひけるは爾の子爾の愛する獨子即ちイサクを携てモリアの地に到りわが爾に示さんとする彼所の山に於て彼を燔祭として獻ぐべし」 創世記22:2 明治元訳聖書

「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」 口語訳聖書

 「老いる」

人は年と共に自分に備わっているものを少しずつ失う。神は年老いたアブラハムに、唯一の希望の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげよと命じられる。苦悩の中で、アブアラハムはイサクの復活を信じる。アブラハムは希望を放棄することによって、希望をよみがえらせる。老いは枯れていくことではなく、再生の秘密に近づくことである。そのために、一切の虚飾が剥ぎ取られるのかもしれない。

(†心のデボーション00904)

† 心のデボーション 00905

「汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救ひ給ふ故なり」 マタイ1:21 大正文語訳聖書

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」 新共同訳聖書

 「その人の罪」

「その罪から ἀπὸ τῶν ἁμαρτιῶν αὐτῶν 」「罪 ἁμαρτία ハマルティア hamartia {ham-ar-tee‘-ah}」には定冠詞 τῶν」がついている。「罪」は一般的な罪や悪ではなく「彼らの罪」である。固有の顔をもち、それぞれ「その人の罪」として特定されるものである。普遍的な罪や悪も、「私の罪」として経験されることによってはじめて認識されるのである。「罪」の救いは「私」から始まる。

(†心のデボーション00905)

† 心のデボーション 00906

「こは人に智慧と訓誨とをしらしめ哲言を暁らせ」 箴言1:2 明治元訳聖書

「これは知恵を知り、教育を与え、悟りの言葉を深く知るためのものであり」 フランシスコ会訳聖書

 「智慧」

漢字の「智慧」の「智」は矢と口と日からなり、「知」は口からでることばを意味し、それに「日」があることで、物事を知り分ける能力を意味する。「慧」は「彗」と「心」からなり、「彗」は上の部分が細かい穂が二つ、下の部分が手をあらわし、穂を束ねて手で持つほうきを意味し、「心」を合わせて、心がほうきの先のように細かく働く、ということから「才知の細やかでめぐりのはやさ」さを意味する。

「智慧」とはその日におこる物事にいち早く口から出る的確で細やかなことばである。
(†心のデボーション00906)

† 心のデボーション 00907

「我らに約し給ひし約束は是なり、即ち永遠の生命なり」 Ⅰヨハネ2:24 大正文語訳聖書

「初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである」 Ⅰヨハネ2:24~25 口語訳聖書

 「キリストのうちにとどまる」

「キリストのうちにとどまれ」とある。「とどまる」は、枝がぶどうの木に「つながる」ように、イエスの言葉に繋がることを意味する。イエスの言葉と私に起きいることを「つなげ」、自分として組み入れる。

言葉を内にとどめていると、それが血となり、全身をくまなくめぐる。枝は生長し、やがて実を結ぶ。

(†心のデボーション00907)

† 心のデボーション 00908

「たれかおのれの過失をしりえんや ねがはくは我をかくれたる愆より解放ちたまへ」 詩篇19:12 明治元訳聖書

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」 新改訳聖書

 「隠されたもう一人の自分」

一旦思い込んでしまうと、見直すのは難しいものだ。「まてよ」と自分に声をかけ、「それだけだろうか」と考えてみる。一つの現実は、いくつもの物語をもっている。目を閉じたいときにも、しっかり見据えてみる。そうやって見えてきた嫌なものが、実は、隠されていたもう一人の自分である場合もすくなくない。思い込みの激しさは、その嫌な自分を隠すためのこだわりなのかもしれない。

(†心のデボーション00908)

† 心のデボーション 00909

「僞預言者に心せよ、羊の扮裝して來れども、内は奪ひ掠むる豺狼(おほかみ)なり」 マタイ7:15 明治元訳聖書

「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」 新共同訳聖書

 「偽預言者」

イエス以後の偽預言者は簡単に見分けられる。自らを「預言者」と称する者がすべてそれである。預言はイエスによって成就し、イエスにおいてその役割を全うしたからである。預言者を名乗る者のいかなる「偽預言」にも従ってはならない。問題はいつの時代にも新しい「預言」を求める人間の思いである。

(†心のデボーション00909)

† 心のデボーション 00910

「預言は人の心より出でしにあらず、人々聖靈に動かされ、神によりて語れるものなればなり」 Ⅱペテロ1:21 大正文語訳聖書

「なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」 新共同訳聖書

 「預言」

預言者は神のことばの代弁者であった。(出エジプト4:16) 預言は人から出るのではなく、神から出た「ことば」であり、実現することによって、それが神からのものであることが証明された。それは、神のことばは「如此(かく)わが口よりいづる言もむなしくは我にかへらず わが喜ぶところを成し わが命じ遣りし事をはたさん」(イザヤ55:11)との確信からくるものである。

神の口から出た「ことば」は、その仕事を成し遂げるまでは、決して神の口に虚しく戻ることはない。

(†心のデボーション00910)

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