† 心のデボーション 00891
「かくて、これらの事を思ひ囘(めぐ)らしをるとき、視よ、主の使、夢に現れて言ふ、『ダビデの子ヨセよ妻マリヤを納(い)るる事を恐るな。その胎(たい)に宿る者は聖靈によるなり」 マタイ1:20 大正文語訳聖書
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」 新改訳聖書
「見よ、驚くことに」
原文に「見よ、驚くことに(ἰδού イドゥ)主の使いが夢に現れ」とある。
「ἰδού イドゥ」は何か新しいことが始まるときに用いられる言葉である。
「現れ φαίνω ファイノー」は「見える、姿を見せる、明らかにする」の意味。神の「現われ fai,nw ファイノー」あるところに「驚き」あり。 「驚きなき信仰」はむなしい。もはや何ものにも驚かなくなったのは、信仰が死んだのである。
信仰のあるところに「ἰδού イドゥ 驚き」あり。
(心のデボーション00891)
† 心のデボーション 00892
「この故に若しキリストによる勸、愛による慰安、御靈の交際、また憐憫と慈悲とあらば」 ピリピ2:1 大正文語訳聖書
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」 新改訳聖書
「御霊の交わり」
「御霊の交わり」とは霊を分かちもつ交わりのことである。人の魂に、自分の魂をもって参与する。それは自分とは違う「異なる魂」の深みに触れることである。手触りの違いをそのままに受け取る。それは一つの愛に届こうとする意志である。一つのいのちに出会う喜びが感じられれば、どのような人生にも耐えることができる。
(心のデボーション00892)
† 心のデボーション 00893
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書
「類似によって説明する」
「箴言 מָשָׁל マーシャール」は「類似によって説明する」の意味からきており、「真理を人生の実際的な事柄を通して知恵として表現する」の意味である。
神はあらゆる事物を創造された。地上にあるあらゆる事物、現象はそれを創造された神を現わす。あらゆる事物、事象の地平に、「類似」によって説明される神の御業があらわれている。
(†心のデボーション00893)
† 心のデボーション 00894
「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書
「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書
「私とは何か」
聖書の主題が神と人間であるとき、冒頭の「初めに」は「人間の始め」と読むことができる。
「初め」は、「天地のはじまり」についての記録であるよりも、まず人間の「はじめ」としてその冒頭におかれるのである。
「私とは何か」という問いは、自己の存在の根源を父母よりの出生をはるかに遡り「天と地の創造」に至らなければならない。「私」という存在の「はじまり」は、時と空間のはじまりから「私」として今ここに存在するにいたる生きとし生けるもののすべてのテーマを含むのである。
「山いまださだめられず陸(をか)いまだ有ざりし前に我すでに生れたり」 箴言8:25 明治元訳聖書
(†心のデボーション00894)
† 心のデボーション 00895
「ヱホバはわが光わが救なり われ誰をかおそれんヱホバはわが生命のちからなり わが懼るべきものはたれぞや」 詩篇27:1 明治元訳聖書
「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」 口語訳聖書
「いのちのとりで」
保育園でウサギが子を産んだ。穴から出て来る子ウサギに園児たちは見飽きることがなかった。翌朝、子ウサギは侵入した犬にすべてかみ殺された。頑丈な金網を破って犬を中に入れている子どもの姿が目撃されていた。子どもの心が荒れる背景には「生きる」ことへの混乱がある。人間的な暖かさに渇きながら、その気持ちをうまく表現できないのかもしれない。誰が、この子どもたちの「いのちのとりで」となるのだろうか。
(心のデボーション00895)
† 心のデボーション 00896
「愚なる者はみづからその道を見て正しとす されど智慧ある者はすすめを容る」 箴言12:15 明治元訳聖書
「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる」 口語訳聖書
「頭痛」
頭痛はいやなものです。頭の裏側を痛みの虫がはうような気持の悪さがある。それが薬を飲むとうそのように消えるのも、考えてみれば不気味ではないか。
頭痛の多くは、その人の生き方に無理があり、生活の姿勢を変えよという身体からのメッセージだと言われる。痛みは消すことだけでなく、なじむという方法もある。痛みもまた自分自身なのだ。身体に聴いて自分を整えるのも、神のくださる智慧である。だが、なじむにも嫌な相手ではある。
(心のデボーション00896)
† 心のデボーション 00897
「汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救ひ給ふ故なり」 マタイ1:21 大正文語訳聖書
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」 新共同訳聖書
「罪からの救い」
「罪 ἁμαρτία ハマルティア」は「罪」だけでなく「誤り、間違い、過ち、咎」を含む。ラテン語 peccatum も「罪、犯罪、過失」を意味する。人間は意識的な罪だけではなく、無意識からの罪、すなわち「過失」という罪も犯す罪人である。イエスの「救い」は人間の意識と無意識の世界に及ぶ。
(†心のデボーション00897)
† 心のデボーション 00898
「汝その隣人の家を貧るなかれ又汝の鄰人の妻およびその僕婢牛驢馬ならびに凡て汝の隣人の所有を貧るなかれ」 出エジプト20:17 明治元訳聖書
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」 口語訳聖書
「むさぼり」
ヘブル語の「欲しがる」は「取る、奪う」という言葉と一緒に用いられる。他人の持っているものを取り上げたり、奪ったりすることである。しかし、もし奪われても、無理に取り戻そうとしないことだ。あなたに定められたものは、いつか、あなたに来るからである。だからといって、何も求めず、何も欲しくないというのが正しいとも思えない。自分に定められたものは、喜びをもって受けたらよい。
(心のデボーション00898)
† 心のデボーション 00899
「われヱホバを愛しむ そはわが聲とわが願望とをききたまへばなり」 詩篇116:1 明治元訳聖書
「私は主を愛する。主は私の声、私の願いをきいてくださるから」 新改訳聖書
「私は主を愛する」
強制収容所で死を目前にしながら「それでも人生にイエスと言おう」と歌った囚人がいたという。
詩人もまた、「よみの恐怖」に襲われながらも、「私は主を愛する」と歌う。「死の綱」にからまれ、身動きできなくても、人は愛することをし、呼び求める。
否定さえしなければ、人はどんな人生にも意味を見つけることが出来る。人生にいのちの意味が生まれる。
(心のデボーション00899)
† 心のデボーション 00900
「愛には虚僞あらざれ、惡はにくみ、善はしたしみ」 ロマ12:9 大正文語訳聖書
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」 新共同訳聖書
「悲しい偽り」
知ってしまった後、知らないかのようにふるまわなければならない場合もある。そこに新たな悲しい偽りがはじまる。
偽りから出たものは愛ではあるまい。愛を偽ることはできない。しかし、この愛から出た偽りを何と呼べばよいだろうか。それが愛だと、どうして知れるのだろうか。それがわからないのでつらいのかもしれない。
(心のデボーション00900)
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