心のデボーション089

デボーション1
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† 心のデボーション 00881

「みよ神はわれをたすくるものなり 主はわがたましひを保つものとともに在せり」 詩篇54:4 明治元訳聖書

「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」 詩篇54:6 新共同訳聖書

 「隠された感情」

人には「隠された感情」がある。自分の内に隠されている感情を探り出すことは心の癒しにつながる。心の否定的な奥には否定的な感情だけではなく愛、許し、感謝などの肯定的な感情も隠されているからである。

しかし、人が「隠された感情」を生のまま経験することはある危険をともなう。神の恵みの中で自分の内に隠されたものと対峙するべきである。

(†心のデボーション00881)

† 心のデボーション 00882

「なんぢヒソブをもて我をきよめたまへ さらばわれ淨まらん我をあらひたまへ さらばわれ雪よりも白からん」 詩篇51:7 明治元訳聖書

「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう」 口語訳聖書

 「清らかな思い」

ユダヤ教では祈りの前に必ず手を洗う。食事の前にも同じように手を洗う。それは清潔を保つというよりも宗教的な清らかさを保つためである。

食事毎にに手を洗うように、神に「思いと意志」を洗ってくださいと祈りたい。「良き仕事」は常にそこから始まる。

(†心のデボーション00882)

† 心のデボーション 00883

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書

「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 明治元訳聖書

 「慰め」

「慰める παρακαλέω パラカれオー」は「παρά 傍らに + καλέω 呼ぶ」で「傍らに招く、側へ呼び寄せる」から「さとす、慰める、励ます、力づける、なだめる」の意味である。

さらに「慰める παρακαλέω パラカれオー」には「必要とされる」の意味がある。神は「悲しむ者」に「あなたは必要とされている」と告げられる。「慰め」とは「自分が必要とされている」と知ることである。

(†心のデボーション00883)

† 心のデボーション 00884

「愚なる者はみづからその道を見て正しとす されど智慧ある者はすすめを容る 」 箴言12:15 明治元訳聖書

「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる」 口語訳聖書

 「エルフの意見」

イギリスのJ・R・R・ トールキンの小説「指輪物語」で、フロドが「エルフに意見を求めるな。よしとあしをともに言う」というと、ギルドールは「エルフは軽々しく忠告を与えることはめったにない」と答える。

「忠告は賢者が賢者に与えても危険な贈り物だから」というのである。

よしとあしを共に含むのが本当の忠告であろう。その一方だけの忠告なら、捨ててもさしつかえない。正しい忠告は受け止め方が難しい。

(†心のデボーション00884)

† 心のデボーション 00885

「彼なんぢに食へ飮めといふこといへどもその心は汝に眞實ならず」 箴言23:7 明治元訳聖書

「あなたに、『食え、飲め』と言っても、その心はあなたとともにない」 新改訳聖書

 「尖塔をつくる」

ある国際会談で記念写真をとる場面で、椅子に座った人物が終始、両手の指を合わせている姿が報じられた。

外国では、この仕草は「Steeple(尖塔)」と呼ばれ、心理学的には上下関係・支配者意識を表すと共に、飽きた・時間の無駄、あるいは早く立ち去りたいなどの感情を示すものだそうである。

相手が「Steeple(尖塔)」をつくっていないか注意する必要がある。

(†心のデボーション00885)

† 心のデボーション 00886

「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる權をあたへ給へり」 ヨハネ1:12 大正文語訳聖書

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」 新改訳聖書

 「信じる理由」

人がUFOを信じたがるのは、理解を超えた未確認のものが出現して、現実を根底から覆してくれる可能性に希望を託したいからかもしれない。それと同じ理由から神を信じる人もいる。しかし、その信仰によって現実を変えることは可能だろうか。

人は神を信じる理由を明らかにする必要がある。理由がなくても信じることはできるが、理由を問うことによって信仰は深まる。信じる理由は神のことばに聴かなければならない。

(†心のデボーション00886)

† 心のデボーション 00887

「我知る人の中にはその世にある時に快樂をなし善をおこなふより外に善事はあらず」 伝道3:12 明治元訳聖書

「わたしは知った。人は生きている間、喜び楽しんで暮らす以上に幸せなことはほかにはないことを。」 フランシスコ会訳聖書

 「愉快なる心」

英語の「ほがらかな、機嫌の良い」を意味する「cheerful」はラテン語 care すなわち英語の 「顔 face」から転じてもので、「愉快なる心が顔に現はるることである」(新渡戸稲造)。

不機嫌な顔を見るよりも、一人の「cheerful」な人に会うことで如何に慰められることだろうか。

(†心のデボーション00887)

† 心のデボーション 00888

「かくて、これらの事を思ひ囘(めぐ)らしをるとき、視よ、主の使、夢に現れて言ふ、『ダビデの子ヨセフよ妻マリヤを納(い)るる事を恐るな。その胎(たい)に宿る者は聖靈によるなり」 マタイ1:20 大正文語訳聖書

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」 新改訳聖書

 「思いを巡らせ」

「思いを巡らせ ἐνθυμέομαι エントュメオマイ」のLatin Vulgate訳はcogitanteで、この語はデカルトの『方法序説』(Discours de la méthode)の「我思う、ゆえに我あり」、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum コーギトー・エルゴー・スム、cogito 我思う、ergo ゆえに、sum我あり)の「Cogito 考察する、省察する、思い浮かべる」である。思いを巡らすこと。

(心のデボーション00888)

† 心のデボーション 00889

「正しき言は如何に力あるものぞ 然ながら汝らの規諫る所は何の規諫とならんや」 ヨブ6:25 明治元訳聖書

「わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るであろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ」 口語訳聖書

 「まっすぐなことば」

人の心に寄り添う人はことばの選択に注意する必要がある。不用意に語られた「まっすぐなことば」がヨブの心をえぐり、責め立てた。病める心は何でもないことばにもつまずき、症状を悪化させる。ヨブは友に「思い切って、私を見てくれ」と言う。心をまっすぐに見て、その上で、「まっすぐなことば」を語ってくれというのである。信徒が牧師に期待するのは、その対話ではないだろうか。

(†心のデボーション00888)

† 心のデボーション 00890

「其後に弟出たるが其手にエサウの踵を持り其名をヤコブとなづけたり」 創世記25:26 明治元訳聖書

「その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。

 「争い」

漢字で「争」は「引き合う」を表し、双方から綱を引くように「二人が力をこめて引っ張り合う」ことである。

力で勝敗を決めようとする。

ヤコブは兄エソウと神の祝福を「引き合い」、争った。

(†心のデボーション00890)

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