† 心のデボーション 00871
「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書
「初めに、神は天地を創造された」 新共同訳聖書
「神と人間」
J・カルヴィンは、「キリスト教綱要」において、まず「神を知る知識と、われわれ自身を知る知識」の二つの認識は「互いに結びつけられた事柄である」と主張する。
聖書は「神と人間」という二つの主題をもち、神を知ることは自己を知ることであり、自己を知ることは神を知ることである。しかも、神は人間ではなく、人間は神ではない。そして、人間にとって神は自己においてのみその存在が認められ、人間は神においてのみ自己としての存在を認識する。
かく神と人間の二つの認識は互いにかたく結びついて一つである。神から人間を、また人間から神を切り離した認識は不完全である。
(†心のデボーション00871)
† 心のデボーション 00872
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書
「神を愛する者」
ソロモンは「あなたに何を与えようか。願え」との神のことばに「善悪を判断し、民をさがくために聞き分ける心をしもべに与えてください」と求めた。(Ⅰ列王3:3~9 新改訳聖書)
知恵は知識のことではなく、「神を愛する者」(Ⅰ列王3:3)に与えられる「神のみことば」である。
「主を畏れることは、知恵の初め。知恵は信仰のある者とともに母の胎内で造られた」 ベン=シラ1:14 フランシスコ会訳聖書
(†心のデボーション00872)
† 心のデボーション 00873
「ただ愛に由りてはたらく信仰のみ益あり」 ガラテヤ5:6 大正文語訳聖書
「愛によって働く信仰だけが大事なのです」 新改訳聖書
「愛着」
愛着(アタッチメント)は生後3カ月の幼児期に母親をはじめとする養育者との間に築かれる心理的結びつきである。愛着の形成に問題があると、しばしば愛着障害が発生する。
愛着はいつか「断ち切る」ときがくる。子どもは養育者との愛着を頼りに次第に養育者から離れ他者との信頼関係を築いていく。この時、十分な愛着関係を築くことの出来なかった子どもは他者との有効な接し方・距離感がとれないことからくる人間関係に悩むようにになる。
愛着は無理に断ち切るのではなく、自分の心に生じる思いを受け入れていくのが良いようだ。
(†心のデボーション00873)
† 心のデボーション 00874
「いざわれら拝みひれふし我儕をつくれる主ヱホバのみまへに曲跪くべし」 詩篇95:6 明治元訳聖書
「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう」 新改訳聖書
「筋違い」
人生は自分の思い通りには展開しないものだ。その不満感を放置すると、何事につけうまくいかないことを人のせいにしたくなる。本当の自分はこんなものではないという恨みつらみが人に向かう。思い通りにはいかないから人生は面白く、それと折り合う工夫も生まれよう。自分の思い通りにいかないところに神の御手が働いており、私たちは跪く。自分を責めたり、人を恨むのは筋違いというものである。
(†心のデボーション00874)
† 心のデボーション 00875
「かくて、これらの事を思ひ囘(めぐ)らしをるとき、視よ、主の使、夢に現れて言ふ、『ダビデの子ヨセフよ妻マリヤを納(い)るる事を恐るな。その胎(たい)に宿る者は聖靈によるなり」 マタイ1:20 大正文語訳聖書
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」 新改訳聖書
「恐るな」
「恐るな μὴ φοβηθῇς」の「φοβέω フォベオー phobeō {fob-eh‘-o}」は「追い散らす、敗走させる」からくる。
恐怖に陥り驚愕して逃げ出すこと。
明治元訳聖書は「懼(おそ)るる勿(なかれ)」と訳す。「懼」の「瞿+忄こころ」で、「瞿 ク」は目が二つ入り、恐れて目をおどおどと動かすこと。鳥が左右に目を動かして周囲を見回す様を示す。
恐れるものの目は「鳥が不安そうに、たえまなく目を左右に動かす」ように、あたりを見回す。
(†心のデボーション00875)
† 心のデボーション 00876
「なんぢの聖言はわがあしの燈火わが路のひかりなり」 詩篇119:105 明治元訳聖書
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」 新改訳聖書
「ヤット 指示棒」
「ヤット 指示棒」は先に人差し指がついている棒で、ユダヤ教のラビたちは聖書をよむとき、羊皮紙を汚さないようにヤットで文字を指しながら細心の注意を払う。
聖書を読む方法に特別の定めはないが、「ヤット棒」で神のみことばを目で追い、言葉に出して読むのも良いかもしれない。
(†心のデボーション00876)
† 心のデボーション 00877
「茲にモーセ、イスラエルをことごとく召て之に言ふイスラエルよ今日我がなんぢらの耳に語るところの法度と律法とを聽きこれを學びこれを守りて行へよ」 申命記5:1 明治元訳聖書
「さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、『イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え』」 口語訳聖書
「心の悲鳴」
人は自分の声を耳で聞いて、その大きさが適当かどうかを判断する。耳の遠い人の声が大きいのはそのためである。自分の声ばかりでなく、心にも聴く必要がある。心の悲鳴を押し殺していると、必要以上に深く傷ついたり、騒いだりする。
「シェマー・イスラエル 聴きなさい、イスラエル」は、聖書に度々繰り返されるテーマである。神に聴くことによって、人は自分の知らない心の声に聴き、自分を知る。それは喜びの営みである。
(†心のデボーション00877)
† 心のデボーション 00878
「正義をして勝ち遂げしむるまでは、 傷へる葦を折ることなく、 煙れる亞麻を消すことなからん」 マタイ12:20 大正文語訳聖書
「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」 口語訳聖書
「ところてん」
ブックオフでは、一定の期間を経て売れない本を100円コーナーに移すことを「ところてん」と呼ぶそうである。社長の橋本真由美さんの命名だそうである。
人気のないものを「押し出す」ことで「質を保つ」という意味に使われる。
私の本棚では「ところてん」が意外に役立っている。
(†心のデボーション00878)
† 心のデボーション 00879
「あたらしき歌をヱホバにむかひてうたへ そは妙なる事をおこなひその右の手そのきよき臂をもて 己のために救をなし畢たまへり ヱホバはそのすくひを知しめ その義をもろもろの國人の目のまへにあらはし給へり 」 詩篇98:1~2 明治元訳聖書
「新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた」 新改訳聖書
「あたらしき歌」
この聖句は、最初の教会史家エウセビオスが、コンスタンスティヌス帝によって、キリスト教の神がついに勝利を収めたと感慨を込めて、著書『教会史』の最終巻の冒頭で引用した詩篇である。
勝利の賛美を歌う教会―これは4世紀の教会の姿を見事に表現している。ついに、日の目を見た教会、それまで異端と戦い、迫害に甘んじてきたキリスト教会がローマ帝国において公認を勝ち取った。そんな教会を想像してみると、賛美と喜びの声はどのように響いたことだろうか。
「新しい歌」とは象徴的である。それは4世紀の教会がそれまでの歴史の中で経験したことのない新しい状況の中に置かれたことを意味する。しかしそこに至るまで、キリスト教会は、まさに迫害の嵐をくぐり、十字架を忍ばなければならなかったのである。
(†心のデボーション00879)
† 心のデボーション 00880
「ヤコブの家よイスラエルのいへの遺れるものよ 腹をいでしより我におはれ胎をいでしより我にもたげられしものよ 皆われにきくべし なんぢらの年老るまで我はかはらず白髮となるまで我なんぢらを負ん 我つくりたれば擡ぐべし我また負ひかつ救はん 」 イザヤ46:3~4 明治元訳聖書
「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ」 口語訳聖書
「雪の結晶」
水蒸気を含む空気が上空で冷却され過飽和になると,細かいちりなどを芯に水分子は凝結して固化することで氷のつぶが生まれ「雪の結晶」となる。
結晶のパターンは、結晶が成長するときの温度と過飽和度によって千差万別に美しく変化し同じものは二つとない。
神は人にそれぞれに個性的な美しさを与えて創造され、「雪の結晶」のように同じ人格は二つとしてない個として存在する。
(†心のデボーション00880)
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