† 心のデボーション 00861
「なんぢら新しき團塊とならんために舊きパン種を取り除け、汝らはパン種なき者なればなり。夫われらの過越の羔羊すなはちキリスト既に屠られ給へり」 Ⅰコリント5:7 大正文語訳聖書
「パン種のない者」
パン種のない者とは、自慢気に膨れ上がらない人のことであろう。やっかいなことに、私たちは人の自慢話を聞かせられるのは死ぬほど苦痛なのに、自分のことになると心がむくむくと膨れ上がるのを抑えられないところがある。だから時々、主は膨れ上がった心をチクリと刺されるのかもしれない。パン種のない集いが、私たちの守りたい礼拝である。
(†心のデボーション00861)
† 心のデボーション 00862
「正義をして勝ち遂げしむるまでは、 傷へる葦を折ることなく、 煙れる亞麻を消すことなからん」 マタイ12:20 大正文語訳聖書
「正義に勝利を得させるまでは、彼は折れた葦を切り離さず、くすぶっている灯心を消さない」 フランシスコ会訳聖書
「折れた葦」
「葦の棒」は物差しに使われた。折れてしまえば物差しには役に立たない。「折れた葦」は「頼りにならないもの」の意味である。
神は折れてしまいもはや役に立たなくなった「葦」を捨て去ることをなさらず、用いたもう。
(†心のデボーション00862)
† 心のデボーション 00863
「我いひあらはさざりしときは終日かなしみさけびたるが故にわが骨ふるびおとろへたり」 詩篇32:3明治元訳聖書
「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」 口語訳聖書
「告白」
ダビデはバテ・シェバを犯し、彼女の夫ウリヤを殺した過去を告白する。罪の告白は、それを言葉として表現することである。告白するためには、その経験に戻り、言葉を刻まなければならない。「黙っている間」私たちは「うめき、骨々は疲れ果てる」。苦しみは言葉に変え、言いあらわすことによって平安に変わる。神が私たちの告白を受け取ってくださるからである。
(†心のデボーション00863)
† 心のデボーション 00864
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 箴言1:1 明治元訳聖書
「ダビデの子イスラエルの王ソロモンの箴言」 新共同訳聖書
「箴言」
ソロモンは三千の箴言を語り、千五百の歌をつくった。(Ⅰ列王4:32)
それは「あらゆるものに先んじて創造され、永久の昔からあった」(ベン=シラの書1:4 バルバロ訳聖書)という「知恵」についての「箴言」である。そして、その箴言は「すべての業の上に注がれる」(ベン=シラの書1:4 フランシスコ会訳聖書)
「箴言」は創造の知恵であり、創造を照らす光である。
(†心のデボーション00864)
† 心のデボーション 00865
「第七日に神其造りたる工を竣たまへり即ち其造りたる工を竣て七日に安息たまへり」 創世記2:2 明治元訳聖書
「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた」 口語訳聖書
「創造の第七日目」
創造の第七日目に、神はなさっていたすべてのわざを止め、「休まれ」る。ヘブライ語の「休み」は「断つ」という意味を含む言葉である。疲れたので一息入れるというのでなく、わざを「断ち」「控え」られたのである。「休み」は次の「飛躍」を生む。わざを断ち、控えるのは、新しいわざを始めるためである。何もしないことを大事にすべきである。そこから、次になすべきことが満ちてくる。
(†心のデボーション00865)
† 心のデボーション 00866
「言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん」 Ⅱコリ12:9 大正文語訳聖書
「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」 口語訳聖書
「桶の板」
桶の水の量は一番短い板によって決まる。それ以上水を入れても桶に水はたまらない。そのように「寿命は一番弱い重要臓器によって決められる」という考えもあるが、身体には強い臓器が弱いところを補うところもある。人の集まりも強い者が弱さを補うようであり、その意味では「弱さ」が「強さ」を引き出す役割をしていることも少なくない。
(†心のデボーション00866)
† 心のデボーション 00867
「この福音は全世界にも及び、果を結びて増々大になれり。汝らが神の恩惠をききて眞に之を知りし日より、汝らの中に然りしが如し」 コロサイ1:6 大正文語訳聖書
「そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである」 口語訳聖書
「これからは塔自身が」
古い塔を再建した棟梁が、完成した日に、これまでは自分たちが建てた、これからは塔自身が自分の姿を造り上げていくと語った。ものを造る喜びは、造った人の手を離れてからも、ものそれ自身が何かを成し遂げていくところにある。
福音は、それ自身で実を結び、広がり続ける神の働きである。しかし、伝える者がいなくては、この広がりははじまらない。それが福音にかかわる者の喜びである。
(†心のデボーション00867)
† 心のデボーション 00868
「それ木には望あり 假令砍るるとも復芽を出してその枝絶ず」 ヨブ14:7 明治元訳聖書
「木には希望がある、というように木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない」 新共同訳聖書
「木には望あり」
切り倒して枝を払い、2年も乾燥させた銀杏の丸太から芽が吹き出た。「木には望みがある」というのは本当である。その「若枝は絶えることがない」。
倒されたら丸太のように横たわり、望みが絶たれたら絶たれたままを生きる。乾いた幹から芽が吹き出す時、私は神を賛美しよう。
(†心のデボーション00868)
† 心のデボーション 00869
「神を畏れ」 使徒10:2 大正文語訳聖書
「神を恐れかしこみ」 新改訳聖書
「神を畏れる者」
「神を畏れる者 φοβούμενος τὸν θεὸν(使徒10:2)」に「恐れるな μὴ φοβηθῇς」と呼びかけられる。
「神を畏れる者」は、神のことばを受け入れることができるかどうかを、なによりも「恐れる φοβέω(神を恐れかしこむ)」。「神への畏れ」を感じる者に、「畏れるな」という声がある。
(†心のデボーション00869 マタイ1:20)
† 心のデボーション 00870
「いふ請ふ我をして刈者の後にしたがひて禾束の間に穗をひろひあつめしめよと 而して來りて朝より今にいたるまで此にあり 其家にやすみし間は暫時のみ」 ルツ2:7 明治元訳聖書
「彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」 口語訳聖書
「落穂の導き」
朝、雀の餌場にくず米を置く。気分がいいと「今日はサービスだぞ」と、少し余分にあげる。しかし、雀はそれを知らない。
良いことがあったら、それは神様のサービスかもしれない。神様は、私の知らないうちに、よく「落穂」を置いていてくださる。ルツはそのようにしてボアズに会い、やがて、その家系からイエス・キリストが誕生する。落穂に導かれる人生もある。
(†心のデボーション00870)
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