心のデボーション086

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† 心のデボーション 00851

「大なる人すべて智慧あるに非ず 老たる者すべて道理に明白なるに非ず」 ヨブ32:9 明治元訳聖書

「老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない」 口語訳聖書

 「二度童子」

昔は、「呆ける」を「赤子帰り」と表現した。漢字の「呆」は赤ん坊が手足をひろげた形だという。

東北地方では還暦を迎える人を「二度童子」という習慣もある。

だが、老人を「子ども扱い」することは、どんなときにも間違っている。ただ、年老いた者としては「かさねた日の数に相応しい分別を持たない者」にはなりたくないのである。

(†心のデボーション00851)

† 心のデボーション 00852

「爭端の起源は堤より水をもらすに似たり この故にあらそひの起らざる先にこれを止むべし」 箴言17:14 明治元訳聖書

「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ」 新改訳聖書

 「泥試合」

つまらないことで人はいさかいをおこす。傍から見ている人にはつまらなくても、当人にはゆずれないことなのである。泥試合をやめるには、当人が不毛な争いを「つまらないこと」と認めなければならない。いさかいが続くのは、その争いごとに何らかの価値があるからに違いない。口では「こんな争いはもう嫌だ」と言いながら、無意識にはそれを望んでいる。争いは小さな水漏れである。ほっておくと堤防も崩す。

(†心のデボーション00852)

† 心のデボーション 00853

「之を辱(はづか)しむることを願(このま)ず」 マタイ1:19 明治元訳聖書

「マリアのことを表ざたにするのを望まず」 新共同訳聖書

 「さらしもの」

ヨセフは妻マリヤを「さらしもの」にしたくなかった。英訳で「さらしもの」は public example 「見本、手本、前例、みせしめ」である。

「さらしもの」には「一罰百戒」「頂門の一針」など必要以上の罰が与えられるが、その効果は思うほどでない。「さらしもの」にされた者の恨みは強い。

(†心のデボーション00853)

† 心のデボーション 00854

「われは律法をよろこび聖言をわするることなからん」 詩篇119:16 明治元訳聖書

「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません」 新改訳聖書

 「今落ち」

早川一光さんは「人間って、不思議に「今」を忘れる。これを「今落ち」という」と書いている。(早川一光 「ほうけてたまるか」)

すごく親しい人なのに、名前が思い出せないことがそれ。しかし、そうした「今落ち」をいちいち悩むこともない、少したてば何の苦もまく思い出しているからだ。人間は本当に必要なことは最後まで覚えている。

(†心のデボーション00854)

† 心のデボーション 00855

「婦樹を見ば食に善く目に美麗しく且智慧からんが爲に慕はしき樹なるによりて遂に其果實を取て食ひ亦之を己と偕なる夫に與へければ彼食へり」 創世記3:6 明治元訳聖書

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」 口語訳聖書

 「のどぼとけ」

「のどぼとけ」を英語で「Adam’s apple アダムのリンゴ」という。それは禁じられた果実(ここではリンゴとなっている)を口に入れたアダムが神様に見つけられ、驚いて飲み込んだところ喉に引っかかって膨れたという説話に基づく。

「のどぼとけ」が男にあって女にないということは、エバはすでに食べた後だったか、それとも神様に見つけられても喉に詰まらせるほど驚かなかったということか?

いずれにしても、女性は男性よりも大胆な時がある。

(†心のデボーション00855)

† 心のデボーション 00856

「なんぢらを生たるサラをおもひ見よ」 イザヤ51:2 明治元訳聖書

「あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ」 新改訳聖書

 「ウミガメの涙」

ウミガメが産卵するとき目から涙を流す光景には、出産の辛さをこらえる母亀の健気さに感動する。しかし、本当はウミガメが海を泳ぐときに呑み込んだ塩分を目から体外に流し出すのが涙に見えるのだという。

そうした理由がわかっても、やはり、出産に耐える母の涙なのだと思っていたい気がする。

(†心のデボーション00856)

† 心のデボーション 00857

「笑ふ時にも心に悲あり 歓樂の終に憂あり」 箴言14:13 明治元訳聖書

「笑うときにも心は痛み、終わりにも喜びが悲しみになる」 新改訳聖書

 「絞首台の笑い」

「絞首台の笑い Gallows transaction」は「死刑囚が処刑される瞬間にニヤッと笑う」というほどの意味だが、本来は笑うような時ではないところで笑う「場違いで不自然な笑い」のことである。

一緒になって笑ってはいけない。

(†心のデボーション00857)

† 心のデボーション 00858

「汝は ユダの長たちの中にて最小き者にあらず」 マタイ2:6 大正文語訳聖書

「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの中の氏族のうちで、けっして最も小さな者ではない」 フランシスコ会訳聖書

 「一番短い板」

「水を張った桶の水の量は一番短い板によって決められる」という原則は、例えば健康は一番弱い臓器によって決まるというふうに、さまざまに説明される。しかし、弱い臓器の役割をを強い臓器が代わるということもある。脳は一部に傷が生じても、残された脳が切れたネットをつなぐこともある。ただ、健康は一つの強い臓器によって保たれるのではなく、いくつもの板によってつくられる桶のように、一つの小さな臓器もそれと同じように大切なのだ。

(†心のデボーション00858)

† 心のデボーション 00859

「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな」 マタイ6:31 大正文語訳聖書

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな』」 新共同訳聖書

 「杞憂」

昔、杞の国に住んでいたある人が、「天の空が崩れ落ちてきたらどうしよう」といたく心配したという話が「列子」にあり、ここから起こりそうもないことを心配することを「杞憂」ということばが生まれた。

人が心に浮かべる心配の大半は「もしそうなったら」という不安の先取り、すなわち「杞憂」である。

(†心のデボーション00859)

† 心のデボーション 00860

「かくて、これらの事を思ひ囘(めぐ)らしをるとき、視よ、主の使、夢に現れて言ふ、『ダビデの子ヨセフよ妻マリヤを納(い)るる事を恐るな。その胎(たい)に宿る者は聖靈によるなり」 マタイ1:20 大正文語訳聖書

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」 新改訳聖書

 「理解を超えた経験」

ヨセフは妻マリヤの身に起こった出来事について、マリヤから詳しく聞いたに違いない。マリヤは妊娠6か月目に天使ガブリエルから受けた告知(ルカ1:26~38)を、ことごとく夫ヨセフに語ったはずである。しかし、それはヨセフが直ちに受け入れることのできるものではなく、ヨセフに混乱と苦悩をもたらすことになった。

これらのことについて「思い巡らす」ヨセフに主の使いが現われ、天使ガブリエルがマリヤに告げたと同じことを告げる。

人がある経験を「知る」には、自らの経験全く否定するという困難な地点を通過しなければならないときもある。理解を超えた経験を導かれるのは神である。

(†心のデボーション00860)

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