心のデボーション085

デボーション1
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† 心のデボーション 00841

「イエス言ひ給ふ『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん』」 ヨハネ11:25 大正文語訳聖書

「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」 口語訳聖書

 「鮭の彩色壁画」

鳥取県岩美郡国府町岡益の梶山古墳で日本海側ではじめてという彩色壁画が発見され、体長53センチメートルの赤い魚が同心円文と三角文を左右に配してベンガラ(赤黄色の彩色)で描かれていて、鮭ではないかと考えられている。

縄文人は河を下った鮭が再び戻って来るのを「死者のよみがえり」ととらえて死者の弔いに描かれたものかもしれない。

古代から人間は死者の蘇りをかたく信じている。

(†心のデボーション00841)

† 心のデボーション 00842

「これは執る者には生命の樹なり これ持ものは福なり」 箴言3:18 明治元訳聖書

「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである」 新改訳聖書

 「長寿」

2015年の日本人の平均寿命は男性が80.79歳(前年80.50歳)、女性が87.05歳(同86.83歳)で、ともに過去最高を更新したことが、厚生労働省の調査で分かった。

古代ローマ時代のエジプト33~258年の平均寿命は24歳と推定される。1000年頃の世界の平均寿命もおそらく24歳ぐらいとされる。14~15世紀のイングランドが24歳、18世紀のフランスが25歳とヨーロッパ中世もこれとほとんど変わらない水準であったらしい。

日本人は江戸時代あたりまでは40歳に満たないと考えられ、明治初期に、男女とも44歳前後、1947年50歳をわずかに越えたにすぎない。

我々は長く生きた分だけ、過去の人よりも多くのよきものを残す責任がある。

(†心のデボーション00842)

† 心のデボーション 00843

「汝ら我を選びしにあらず、我なんぢらを選べり。而して汝らの往きて果を結び、且その果の殘らんために、又おほよそ我が名によりて父に求むるものを、父の賜はんために汝らを立てたり」 ヨハネ15:16 大正文語訳聖書

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」 口語訳聖書

 「自分という存在」

人生にはやり直しのきかない地点があって、気がついた時には、もうその地点を通過していたということもある。それは決して悪い事ではないかもしれない。この先、やり直しがきかないと意識したら、立ちすくんでしまって、一歩も進めなくなりそうではないか。

人が人生を選ぶのではなく、人生が人を選ぶ。そういう人生と出会った人は、やり直しのきかないことに絶望したりしない。いくつものいのちが重なり合って自分という存在の在ることを知っているからである。

(†心のデボーション00843)

† 心のデボーション 00844

「我なんぢらが勢力として誇るところの者をほろぼし汝らの天を鐵のごとくに爲し汝らの地を銅のごとくに爲ん」 レビ26:19 明治元訳聖書

「わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう」 口語訳聖書

 「痛み」

もし、男がお産をしたら、その痛みにショック死をするだろうと指摘する人もいる。子どもが産まれる、その瞬間に、痛みはうそのようになくなるのだそうである。男は、痛みのもつその不思議がわからないので、ひたすら痛みに怯え、その結果、あまりの恐怖にショック死とあいなる。

痛みをやわらげるには、力を抜いて受け入れることである。痛みを押さえこもうとする、その「力」が、逆に痛みを強くする。

(†心のデボーション00844)

† 心のデボーション 00845

「一生に消費する総エネルギーは決まっているが、それを激しく使って短い一生を終えるか、それとも、ゆっくり使って長く生きるか」 箴言4:4 明治元訳聖書

「父はわたしを教えて言った、『わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ。』」 口語訳聖書

 「生のエネルギー」

ドイツの生理学者マックス・ルブナーは、馬、牛、犬、猫、モルモットという5種類の動物の代謝率と、体重、寿命の関係を調べた。それによると生涯に消費するエネルギー量はほぼ等しいことがわかった。一生に使える総エネルギーは決まっていて、兎はを激しく使って平均6年の一生を終えるが、亀はゆっくり使って70年以上生きるという。(杉本正信 「人は何歳まで生きられるか」)

長生きする人はエネルギーの使い方が上手なのかもしれない。

(†心のデボーション00845)

† 心のデボーション 00846

「愛むや惡むやは人これを知ることなし一切の事はその前にあるなり」 伝道9:1 明治元訳聖書

「愛するか憎むかは人にはわからない。彼らの前にあるすべてのことは空である。」 口語訳聖書

 「愛及屋烏」

「愛及屋烏(あいきゅうおくう)」の「屋烏」は屋根にとまっている鴉のことで、その人を愛するとその人の家の屋根にとまっている鴉さえ愛おしく見えるという意味する。
類義語に「愛屋及烏(あいおくきゅうう)」「屋烏之愛(おくうのあい)」などともいう。

愛は醒めたのに「鴉」が相変わらず愛おしいという場合も珍しくない。

(†心のデボーション00846)

† 心のデボーション 00847

「愛を追ひ求めよ」 Ⅰコリント14:1 大正文語訳聖書

「愛を追い求めなさい」 新改訳聖書

 「惚れる」

「惚れる」は「放れる」で、心が放れて、相手に心奪われ定かでなくなることをさす。そうなると「あばたもえくぼ」状態になることもある。愛には「我を忘れる瞬間」がある。「惚れた」のだ。

(†心のデボーション00847)

† 心のデボーション 00848

「是に於て其人伏てヱホバを拜み 言けるは吾主人アブラハムの神ヱホバは讃美べきかなわが主人に慈惠と眞實とを缺きたまはず我途にありしにヱホバ我を吾主人の兄弟の家にみちびきたまへり」 創世記24:26~27

「その人は頭を下げ、主を拝して、言った、『主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた』」 口語訳聖書

 「合縁奇縁」

人の出会いほど不思議を感じさせるものはない。理屈をこえた不思議がいくつか重なったりする。「縁は異なもの」というし、「合縁奇縁」である。

アブラハムの老いた僕はイサクの嫁となる女性を連れ帰るために、出会いの不思議のために神に祈りながらリベカを知った。(創世記24:1~28)

(†心のデボーション00848)

† 心のデボーション 00849

「われらを凡ての患難のうちに慰め、我等をして自ら神に慰めらるる慰安をもて、諸般の患難に居る者を慰むることを得しめ給ふ」 Ⅱコリント1:4 大正文語訳聖書

「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」 口語訳聖書

 「ラクダの背骨を折る」

一頭のラクダが重さに耐えて、やっと立っている。そこに一枚の羽根が風に飛ばされて荷物の上に落ちた。それで、耐えに耐えていたラクダの背骨が折れたという。

心の病はラクダの背骨を折った「一枚の羽根」のようで、どうでもよいことへのこだわりのように見えるかもしれないが、ギリギリのところで保たれている心のバランスを崩してしまうことがある。問題は「羽根」ではなく、その人の背負っている荷物の重さにある。

(†心のデボーション00849)

† 心のデボーション 00850

「その石垣に目をとめよ そのもろもろの殿をみよ なんぢらこれを後代にかたりつたへんが爲なり」 詩篇48:14 明治元訳聖書

「その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである」 口語訳聖書

 「糞石」

昭和54年6月26日の、毎日新聞夕刊によれば、福井県三方町の鳥浜遺跡から5千年前の縄文前期の糞石が出土したという。「糞石」は文字通り縄文人の「糞」が化石となったもので、強力なレントゲンをあてたところ線状の陰影が無数に見え、それが彼らの食べた魚の骨とわかったという。(矢野憲一 「魚の民俗」)

貴重な化石とはいえ、自分の残したものが5千年の後に残らず調べられると思うと気持ちが落ち着かなくなる。

存在の痕跡を消せないとすれば、残るもののことを考えてみたい。

(†心のデボーション00850)

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