† 心のデボーション 00831
「そはヱホバは智慧をあたへ 知識と聰明とその口より出づればなり」 箴言2:6 明治元訳聖書
「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」 新共同訳聖書
「トゥキディデスの罠」
古代アテナイの歴史家トゥキディデスは、「新興の大国は必ず既存の大国へ挑戦し、既存の大国がそれに恐怖を感じた結果、戦争が起こる」という法則を見出し、「トゥキディデスの罠」といわれるようになった。
現代もこの罠にはまらない知恵が求められている。
(†心のデボーション00831)
† 心のデボーション 00832
「之を辱(はづか)しむることを願(このま)ず」 マタイ1:19 明治元訳聖聖書
「マリアのことを表ざたにするのを望まず」 新共同訳聖書
「恩寵を奪う」
日本では江戸時代に不義密通等を犯した男女を人通りの多い場所に罪状を書いた高札と共にござの上に座らせ、長時間放置して通行人の眼にさらした。公に恥を与えることが何よりも罰であった。
明治元訳新約全書は「彼女〔マリヤ〕を告発する δειγματίζωd デイグマティゾー」を「之を辱しむること」と訳した。ギリシャ語「δειγματίζω デイグマティゾー」は「目の前に出してみせる」ことである。英語 disgrace は、「dis 奪う」+「grace 恩寵」で、「はずかしめる、汚す、面目をうしなわせる」は「恩寵を奪う」ことである。
人の目にさらされることは、日本文化の中で最も恐るべき刑である。「生き恥をさらす」のであれば死を望むだろう。しかし、その反面、世間に知られないなら、何事にも耐えていける暗い側面を生み出した。人に知られさえしなければよいとするのはこの思考の過った帰結である。
神はすべてを人の目にさらされる方ではない。神が人の目にさらされないことは、魂の内にとどめよ。それは魂の営みとして負うべきものである。
(†心のデボーション00832)
† 心のデボーション 00833
「ヱホバわれに答へて言たまはく 此默示を書しるして之を板の上に明白に鐫つけ奔りながらも之を讀むべからしめよ」 ハバクク2:2 明治元訳聖書
「主はわたしに答えて言われた、この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ」 口語訳聖書
「レジェンド」
「レジェンド legend」は「伝説、言い伝え」の意味から「伝説の人」を指して用いられる。語源はラテン語「legere選ぶ、拾い集める」から派生し「読む、読まれるべきもの」という意味の言葉である。16世紀までは「聖者伝」を意味したが、宗教改革後「歴史として語られたもの」を指すようになった。
「読むべきもの」を持つという幸せがある。
(†心のデボーション00833)
† 心のデボーション 00834
「彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり、是なんぢの裔はかくの如くなるべしと言ひ給ひしに隨ひて、多くの國人の父とならん爲なりき」 ロマ4:18 大正文語訳聖書
「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである」 口語訳聖書
「望み得ない状況」
信仰は望みえないときに望みを抱く。信仰の父アブラハムは根拠もなく子孫が与えられると信じたのではなく、「望み得ない状況」に直接働かれる神を信じた。望み得ない状況を、神の力が働く場と信じることから本当の望みが生まれる。自分の現実的な状況を見ることなく、ただ、過剰な期待を持つのは、信仰というよりも、現実から逃げているだけかもしれない。
(†心のデボーション00834)
† 心のデボーション 00835
「汝は面に汗して食物を食ひ終に土に歸らん」 創世3:19 明治元訳聖書
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」 新改訳聖書
「五円玉」
現在の五円玉は1949年に造られ、農業をあらわす「稲穂」、工業をあらわす中央の穴の周りについたギザギザの「歯車」、漁業をあらわす五円の文字の後ろの「波」が、戦後日本の成長への象徴として刻まれたものである。
人は汗を流してこそ生きる。
(†心のデボーション00835)
† 心のデボーション 00836
「斯くのごとき例は我らにも神の諸教會にもある事なし」 Ⅰコリント11:16 大正文語訳聖書
「私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません」 新改訳聖書
「エル・コラチョ」
スペイン北部ブルゴス(Burgos)近郊の村、カストリージョ・デ・ムルシア(Castrillo de Murcia)では6月になると、赤ちゃんの上を悪魔に扮した男たちが飛び越える伝統行事が行われる。「エル・コラチョ(El Colacho)」と呼ばれ、カトリックの「聖体祭(Corpus Christi)」を祝って、路上に敷いたマットの上に生後1年未満の赤ちゃんを寝かせ、男たちがその上を飛び越えると厄払いができると信じられている。
信仰はときに風習をとりいれて土着しようとする。だが、それは正しい土着ではあるまい。
(†心のデボーション00836)
† 心のデボーション 00837
「我民は迷へる羊の群なりその牧者之をいざなひて山にふみ迷はしめたれば山より岡とゆきめぐりて其休息所を忘れたり」 エレミヤ50:6 明治元訳聖書
「わたしの民は迷える羊の群れである、その牧者がこれをいざなって、山に踏み迷わせたので、山から丘へと行きめぐり、その休む所を忘れた」 口語訳聖書
「迷わせる牧者」
「迷わせる牧者」は、群れを山から丘へと連れ歩く。羊は休みたいのに、この牧者は群れを好きなように引き回す。それもそのはずで、彼は「休み場」を忘れてしまったのである。もしかすると、彼ははじめから知らないのかもしれない。
「休み場」には泉があり、水と草がある。そこに導かれるのなら、群れはどんなに険しい崖も越えていける。主は私の善き牧者である。
(†心のデボーション00837)
† 心のデボーション 00838
「密(ひそか)に離緣(りえん)せんと思(おも)へり」 マタイ1:19 明治元訳聖書
「マリアのことを表ざたにするのを望まず」 新共同訳聖書
「万事休す」
「密(ひそか)に離緣(りえん)せんと思(おも)へり」は漢訳聖書で「而欲私休之」とある。「私(密かに)之を「休せんと」「欲す(思えり)」である。
「休」は「休む、憩う」の意味ではなく、「万事休す」の「終わらせる、見捨てる」の意味である。ヨセフはマリヤのことで、もうおしまいだ、「万事休す」というところに追い込まれていた。
そこから祈りが始まる。
(†心のデボーション00838)
† 心のデボーション 00839
「汝ら我を選びしにあらず、我なんぢらを選べり。而して汝らの往きて果を結び、且その果の殘らんために、又おほよそ我が名によりて父に求むるものを、父の賜はんために汝らを立てたり」 ヨハネ15:16 大正文語訳聖書
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」 口語訳聖書
「やり直しのきかない地点」
人生にはやり直しのきかない地点があって、気がついた時には、もうその地点を通過していたということもある。それは決して悪い事ではないかもしれない。この先、やり直しがきかないと意識したら、立ちすくんでしまって、一歩も進めなくなりそうではないか。
人が人生を選ぶのではなく、人生が人を選ぶ。そういう人生と出会った人は、やり直しのきかないことに絶望したりしない。いくつものいのちが重なり合って自分という存在の在ることを知っているからである。
(†心のデボーション00839)
† 心のデボーション 00840
「密(ひそか)に離緣(りえん)せんと思(おも)へり」 マタイ1:19 明治元訳聖書
「マリアのことを表ざたにするのを望まず」 新共同訳聖書
「密(ひそか)に」
「λάθρᾳ 密(ひそか)に」は大正文語訳聖書では「私(ひそか)に」である。「私」という字は 禾(作物)+ム(音符)で「収穫物を細分して自分のだけをかかえこむ」ことで、「個人的に、こっそりと」の意味にも用いる。
ヨセフはマリヤの問題をバラバラに細分し、そのなかから自分のものだけをかかえこみ、こっそりと処理しようとしたのである。「私」がでると、問題は全体性を失ってしまう。
(†心のデボーション00840)
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