心のデボーション081

デボーション1
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† 心のデボーション 00801

「二人もし相會せずば爭で共に歩かんや」 アモス3:3 明治元訳聖書

「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」 新改訳聖書

 「仲良き友」

原文で「相會す(仲が良い)」は「打ち合わせて会う」となっている。沙漠ではあらかじめ落ち合う場所を打ち合わせておかなければ、友と一緒に歩くことなどあり得ない。

友と同じ方向に歩きたいなら、よく打ち合わせすることだ。その努力を怠ると、行き違いが生じる。首尾よく友と出会った後も、その心遣いを忘れてはいけない。沙漠で友と仲たがいすることは死を意味するからである。

(†心のデボーション00801)

† 心のデボーション 00802

「汝らは髮を辮み、金をかけ、衣服を裝ふごとき表面のものを飾とせず」 Ⅰペテロ3:3 大正文語訳聖書

「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません」 新共同訳聖書

 「それはまた別の袖」

イタリヤ語に「それはまた別の袖」という言い方があるという。「それは別の問題だ」の意味だそうである。

中世の時代には服と袖を別々のカッサバンカ Cassapanca と呼ばれる収納箱(横長の木製チェスト)にしまって、普段は質素な袖を身に着け、外出するときには上品で優雅な袖をつけた。

「袖」一つで変われるのであれば便利この上ない。聖書は「朽ちない飾り」を身につけよと語る。(Ⅰペテロ1:4)

(†心のデボーション00802)

† 心のデボーション 00803

「エホバ神土を以て人を造り、生気(いのちのいき)をその鼻にふきいれたまえり。人すなわちいきるものとなりぬ」創世記2:7 明治元訳聖書

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」 マタイ1:18 新共同訳聖書

 「聖母リタ」

「聖母リタ」(1381年~1467年)はウンブリアのカッシアに生まれ、暴力を振るう粗暴な夫に不幸な人生を送った。夫はリタの祈りによって回心するが、彼を恨む者によって殺害される。2人の息子も失い、アウグスチノ修道院に入会した。

ある日、聖堂で祈っている時、イエス像の茨の冠の棘が飛び、リタの額に当たった。それが化膿し悪臭が発生したので、リタは隔離され独房で隠匿生活を送ったという。1457年、リタは死去するが、その額、遺体から芳香が立ちこめ聖女としての評判が高まり、557年後の1900年に列聖された。

ミイラ化したリタの遺骸はイタリヤのカッシアで公開されている。そこから、マリヤ像が白で表現されるのに対して「聖母リタ」は「黒いマリヤ」とも「黒衣聖母」とも言われる。聖母マリヤには畏れ多く祈れないことでも、「聖母リタ」にはお願いできるとして、多くの悩みを抱える人々がやってくる。

聖母信仰の背後には人間の苦悩が隠されている。

(†心のデボーション00803)

† 心のデボーション 00804

「汝の兄の怒の釋るまで暫く彼とともに居れ」 創世27:44 明治元訳聖書

「兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい」 新改訳聖書

 「ほとぼりを冷ます」

「ほとぼりが冷める」の「ほと」は「熱」と書く。火を消したあとに残るぬくもりの意味で、ある出来事が終わったのにいつまでも熱っぽさがなごりとして残る。

世間では意外と早くさめるものだが、心に残った「ほとぼり」はなかなか冷めてくれない。

「ほとぼり」は正しく冷まさなければいけない。

(†心のデボーション00804)

† 心のデボーション 00805

「往て人の是非をいふ者は密事を洩し 心の忠信なる者は事を隱す」 箴言11:13 明治元訳聖書

「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」 新改訳聖書

 「バラの下で」

ローマ帝国の末期には、薔薇の花を天井から吊るした会合での会話は一切秘密にされた。「バラの下で sub rosa」は「秘密」の意味である。(英語 under the rose)

しかし、「Every rose has its shorn.」という言葉もあり、その「秘密」にも痛い棘がある。

(†心のデボーション00805)

† 心のデボーション 00806

「汝らの潔く、かつ恭敬しき行状を見て」 Ⅰペテ3:2 大正文語訳聖書

「あなたがたのうやうやしく清い行いを見て」 口語訳聖書

 「左斜めのハンコ」

金融業界には印鑑を左斜めに傾けて押す習慣があるという。稟議書などの自分より地位の高い人の押す欄に部下が敬意を払って頭を下げる形に印を押すという意味だそうである。現代には電子印鑑に初めから斜めに押せる機能までついているものがあるという。

印鑑は左に傾けると見せて、実は右に反り返るのもあるかもしれない。

(†心のデボーション00806)

† 心のデボーション 00807

「ヱホバかくいひたまふ智慧ある者はその智慧に誇る勿れ力ある者は其力に誇るなかれ富者はその富に誇ること勿れ」 エレミヤ9:23 明治元訳聖書

「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」 新共同訳聖書

 「相手を負かす」

相手を負かしたいのではなく、自分が負けたくないだけなのかもしれない。しかし、勝つということは相手が負けることである。負けた人は、それで落ち込んだり、悔しい思いをする。

徹底的に勝ってしまってはいけない。だからといって、わざと負ければいいというのでもない。自分を生かすことが、相手も生かすことになればよい。有能な人ほど、この辺のことがわかりにくいかもしれない。

(†心のデボーション00807)

† 心のデボーション 00808

「汝この世の富める者に命ぜよ。高ぶりたる思をもたず、定なき富をたのまずして、唯われらを樂しませんとて萬の物を豐に賜ふ神に依頼み」 Ⅰテモテ6:17 大正文語訳聖書

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」 新共同訳聖書

 「楽しみ」

何かを食べようとして食堂をのぞくのだが、食べたい物が決められずに、町を一巡してしまうことがある。結局、歩き疲れて、一番安い物を食べることになってしまう。選びたいものが選べず、好きでもないものを選んでしまう。楽しんではいけないという思いが心にあって、楽しみと反対の行動をとってしまうのかもしれない。与えられたものを楽しむのも神の恵みである。

(†心のデボーション00808)

† 心のデボーション 00809

「諸の工と從事を悦こびて爲ところの諸の技巧者汝とともに在り」 Ⅰ歴代28:21 明治元訳聖書

「もろもろの勤めのためにすべての仕事を喜んでする巧みな者が皆あなたと共にある」 口語訳聖書

 「プロフェッショナル」

「プロフェッショナル professional」の語源はラテン語 professus で、神に宣誓した人や神の託宣を受けた人を指し、最初は聖職者を指した。「pro 前に」+「fessus 言う」で、人の前で公言する、宣言をするの意味である。神の前に高い倫理と技能を示す人をプロフェショナルと呼ぶ。

信仰の宣言も「プロフェショナル professional 公言する人」とされる。
(†心のデボーション00809)

† 心のデボーション 00810

「エホバ神土を以て人を造り、生気(いのちのいき)をその鼻にふきいれたまえり。人すなわちいきるものとなりぬ」創世記2:7 明治元訳聖書

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」 マタイ1:18 新共同訳聖書

 「聖霊による身ごもり」

マタイ福音書はイエスの生涯を母マリヤの「聖霊による身ごもり」という驚きの事実をもって始める。いきなりの衝撃に打ちのめされない者はいないであろう。イエスの存在は人間が解明することのできない事柄を前提にする。そして、我々はすべての存在が同じ前提をもつことに思い至るのである。

(†心のデボーション00810)

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