心のデボーション080

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 00791

「エホバ神土を以て人を造り、生気(いのちのいき)をその鼻にふきいれたまえり。人すなわちいきるものとなりぬ」創世記2:7 明治元訳聖書

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」 新共同訳聖書

 「神の霊われを造り」

「聖霊 πνεῦμα プネウマ」は「神の息、呼吸」である。

人は土をもってつくられ、神はその鼻に「いのちのいき πνεῦμα プネウマ」を吹き込まれ、人は「生きるもの」となった。ここにすべての人は内に「神的起源」をもつのである。すべての人は生まれながらに「尊厳」を有する。

「神の霊われを造り、全能者のいきわれを活かしむ」 ヨブ33:4 明治元訳聖書

(†心のデボーション00791)

† 心のデボーション 00792

「敗壞とほきより來らんとき何をなさんとするか」 イザヤ10:3 明治元訳聖書

「遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか」 新改訳聖書

 「破壊(やぶれ)」

「破壊(やぶれ)」は嵐のように遠くからやって来る。それが遠くにいる間に備えなければ、接近してからでは間にあわない。

(†心のデボーション00792)

† 心のデボーション 00793

「幸福ある日には樂め 禍患ある日には考へよ 神はこの二者をあひ交錯て降したまふ 是は人をしてその後の事を知ることなからしめんためなり」 伝道7:14 明治元訳聖書

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」 新改訳聖書

 「順境の日、逆境の日」

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」と伝道者は語る。順境の日に反省する人は逆境の日に喜ぶこともできる。人は反省を忘れなければ、順境にも逆境にも、とるべき行動を誤らない。「神のみわざに目を留め」「これもあれも神のなさること」という視点がなければ、反省は弱いものになる。どんな状況の中でも、自分のとるべき行動を見出し、状況に働きかけてゆけるのが、反省から生まれる喜びである。

(†心のデボーション00793)

† 心のデボーション 00794

「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」 新改訳聖書

 「すべての営みには時がある

私が変わるのか。時が私を変えるのか。いずれにしても「今」は変わる時である。如何に変わるかを時が運んでくるようでもある。

(†心のデボーション00794)

† 心のデボーション 00795

「各自おのが荷を負ふべければなり」 ガラテヤ6:5 大正文語訳聖書

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」 新改訳聖書

 「不適応」

社会にうまく適応できないという悩みは辛いものだ。適応しようとすればするほど空回りしてしまう。問題は社会にうまく合わせられないことにではなく、自分とうまく適応できないことにあるのかもしれない。自分とうまく折り合うことができると外とも自然に振舞えるようになる。

(†心のデボーション00795)

† 心のデボーション 00796

「迅速者走ることに勝にあらず強者戰爭に勝にあらず」 伝道9:11 明治元訳聖書

「足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない」 新共同訳聖書

 「はっけよい」

相撲では行司が「はっけよい」と掛け声をかける。日本相撲協会によると、「はっけよい」は「発気揚々」の意味で、「発」を「早」とし、「けよい」は「競う」の命令形で「早く競いなさい」と言うのだそうである。

(†心のデボーション00796)

† 心のデボーション 00797

「智者の目はその頭にあり」 伝道2:14 明治元訳聖書

「賢者の目はその頭に」 新共同訳聖書

 「智者の目」

「水すまし」は水面を走って溺れた虫などを食べる。水中と上に4つの目をもっている。上と下は見ることができるが前は見えないのだそうである。

人にも上と下しか見ないことがあって、前が見えないのは危ない。

(†心のデボーション00797)

† 心のデボーション 00798

「汝の後の日に望あり」 エレミヤ31:17 明治元訳聖書

「あなたの未来には希望がある、と主は言われる」 新共同訳聖書

 「時代意識」

人と親密な関係をつくれないと「時代意識」を実感しにくくなる。過去と未来がつながらず、ただ「今」がぽつんと置かれている。

現代は社会に「親密な関係」を見つけにくい時代になっている。しかし、「親密な関係」は外というよりも内にある。「内なる他者」との生きた関係が「時」が自分の内で連続するのを支えるのである。

「内なる他者」が生き生きとある限り、人は希望を失わない。

(†心のデボーション00798)

† 心のデボーション 00799

「ヱホバ、ヨセフとともに在す彼享通者となり」 創世39:2 明治元訳聖書

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」 新改訳聖書

 「偶然」

モンテーニュは自分に向けられた砲門が火を発した瞬間に首をちぢめて助かった男について書いている。「別の時に、もう一度同じことをやったら、わざわざ弾丸にぶつかることになるかもしれない」。(モンテーニュ「随想録」)

幸運に働く「偶然」が不幸に働くこともある。

(†心のデボーション00799)

† 心のデボーション 00800

「エホバ神土を以て人を造り、生気(いのちのいき)をその鼻にふきいれたまえり。人すなわちいきるものとなりぬ」創世記2:7 明治元訳聖書

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」 新共同訳聖書

 「聖母リタ」

「聖母リタ」(1381年~1467年)はウンブリアのカッシアに生まれ、暴力を振るう粗暴な夫に不幸な人生を送った。夫はリタの祈りによって回心するが、彼を恨む者によって殺害される。2人の息子も失い、アウグスチノ修道院に入会した。

ある日、聖堂で祈っている時、イエス像の茨の冠の棘が飛び、リタの額に当たった。それが化膿し悪臭が発生したので、リタは隔離され独房で隠匿生活を送ったという。1457年、リタは死去するが、その額、遺体から芳香が立ちこめ聖女としての評判が高まり、557年後の1900年に列聖された。

ミイラ化したリタの遺骸はイタリヤのカッシアで公開されている。そこから、マリヤ像が白で表現されるのに対して「聖母リタ」は「黒いマリヤ」とも「黒衣聖母」とも言われる。聖母マリヤには畏れ多く祈れないことでも、「聖母リタ」にはお願いできるとして、多くの悩みを抱える人々がやってくる。

聖母信仰の背後には人間の苦悩が隠されている。

(†心のデボーション00800)

コメント