† 心のデボーション 00781
「されど汝その中よりわれらをひきいたし豊盛なる處にいたらしめたまへり」 詩篇66:12 明治元訳聖書
「しかしあなたはわれらを広い所に導き出された」 口語訳聖書
「問題を忘れる」
問題を解決するのは、その問題への直接的な方法とは限らない。問題とは直接関係のない行動が問題を解決してくれることが多い。問題を忘れている間に問題が自ら解決しているのだ。
(†心のデボーション00781)
† 心のデボーション 00782
「されば總て世をふる事、アブラハムよりダビデまで十四代、ダビデよりバビロンに移さるるまで十四代、バビロンに移されてよりキリストまで十四代なり」 マタイ1:17 大正文語訳聖書
「是の故にアブラハムよりダビデに至るまで、すべて代を經(ふ)ること[正に]十四ン代。またダビデよりバビロンに移されるまで[正に]十四ン代。またバビロンに移されてよりキリストに至るまで[正に]十四ン代[なり]。」 永井直治訳聖書
「名門」
イエスはいわゆる「名門」の家柄である。
英語の俗語で「名門・貴族」をBlue blood「青い血」という。Blue bloodはスペイン語「青い血(sangre azul サングレ・アスル」からきたもので、貴族は褐色の肌を持っておらず、あまり屋外にも出ないので肌の色白く、静脈が青く透けて見えたところから「貴族の血は青い」という俗信が生まれたという。
しかし、イエスの系図を見る限り、「名門」は栄光と悲惨、栄誉とその喪失である。この系図は人間のもついささかの驕りも約束するものではない。
(†心のデボーション00782)
† 心のデボーション 00783
「その歌を歌ひ讃美をなし始むるに當りてヱホバ伏兵を設けかのユダに攻きたれるアンモン、モアブ、セイル山の子孫をなやましたまひければ彼ら打敗られたり」 Ⅱ歴代20:22 明治元訳聖書
「彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人。モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた」 新共同訳聖書
「新しい歌」
「歌手は、同じうたを完全に同じようにうたうことは決してできない」(W・ズッパン「ドイツの民謡」)
讃美歌は歌う度ごとに「新しい」。同じ歌でも歌われる数だけ新しく歌が生まれる。
(†心のデボーション00783)
† 心のデボーション 00784
「われヤハの作爲をのべとなへん われ往古よりありし汝がくすしきみわざを思ひいたさん」 詩篇77:11 明治元訳聖書
「私は、主のみわざを思い起こそう。あなたの奇しいわざを思い起こそう」 新改訳聖書
「リコーダー」
木管楽器のリコーダー「recorder」は「記録するもの」の意で、ラテン語の 「recordor(思い起こす)」から来ている楽器である。
昔はあまり大切な楽器とされず、寒い日には薪がわりに燃やされることもあったという。思い起こさせてくれるものを燃やしてはいけない。
(†心のデボーション00784)
† 心のデボーション 00785
「酵いれたるパンを之とともに食ふべからず七日の間酵いれぬパン即ち憂患のパンを之とともに食ふべし其は汝エジプトの國より出る時は急ぎて出たればなり斯おこなひて汝その世に生存ふる日の間恒に汝がエジプトの國より出來し日を誌ゆべし」 申命記16:3 明治元訳聖書
「それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである」 新改訳聖書
「悩みのパン」
イスラエル人は過越しの祭りの間、パン種を入れない「悩みのパン」を食べるよう命じられる。エジプトの苦役と、そこからの脱出を忘れないためだった。
「悩みのパン」は、救出の「喜びと賛美のパン」でもあった。
人生の食卓には、時々「悩みのパン」が添えられる。涙と共に食べるが、いつか喜びと賛美に変わる。
「悩みのパン」はよく味わって食べることです。力が内に蓄えられるのが感じられる。
(公民館で「戦時中のすいとん」をふるまっていた。列にならんで食べたが、薄い塩味だけの、あまりのまずさに最後まで食べるのがためらわれた。「悩みのパン」は過去の苦悩の日々を忘れないだけでなく、今の幸いを教えてくれる。)
(†心のデボーション00785)
† 心のデボーション 00786
「ヱホバは汝をまもる者なり ヱホバはなんぢの右手をおほふ蔭なり」 詩篇121:5 明治元訳聖書
「主はあなたを守る力、主はあなたの右におられ、その陰であなたを覆ってくださる」 フランシスコ会訳聖書」
「肌落ち」
トンネル工事で最も恐ろしいのは「肌落ち」である。トンネルの上層部の砂パラパラ落ち、やがて「砂の津波」のように押し寄せて来る。
自分の頭の上に「肌落ち」を感じたら、危険をさけて逃げなければならない。
(†心のデボーション00786)
† 心のデボーション 00787
「彼等園の中に日の清涼き時分歩みたまふヱホバ神の聲を聞しかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面を避て園の樹の間に身を匿せり」 創世記3:8 明治元訳聖書
「いつものようにそよ風のき始めるころ、二人は園をそぞろ歩きされる神である主の足音を聞いた。人とその妻は神である主を避け、園の木の間に隠れた」 フランシスコ会訳聖書
「歩き回られる神」
神は夕刻、エデンの園を歩かれる。地を「歩き回られる神」である。
内村鑑三は「神は我が神経に非らず、我が精力に非らず、彼は我が脳裏に書ける影像に非らず、彼は我を離れて実在する者なり」と書いている。(内村鑑三「所感十年」38,10)
心得違いをしてはいけない。「神の内在」とは、外に実在したもう神が我に入来たり給うのである。
(†心のデボーション00787)
† 心のデボーション 00788
「己がさばく審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量(はか)らるべし」 マタイ7:2 大正文語訳聖書
「あなたがたが人を裁くように、自分も裁かれ、あなたがたが量るそのまずで、あなたがたにも量り与えられるのである」 フランシスコ会訳聖書
「測り竿」
「はかり」はギリシャ語 メトロン で葦の測り竿を意味した。測量である。
人を批評することは、彼を「測り竿」で測り、裁くことである。
神は人を裁くために用いた「測り竿」でその人を測り与えられる。
(†心のデボーション00788)
† 心のデボーション 00789
「愛は誇らず、驕らず、 非禮を行はず」 Ⅰコリント13:4~5 大正文語訳聖書
「愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず」 新共同訳聖書
「ゴッホの失意」
ファン・ゴッホは社会で役立つ人間にならなければという強迫観念をもっていたようだ。人とのつながりを求めて非常識な行動を起こし、かえって人々から嫌われた。ゴッホにすれば深い愛であったが人々には狂気に映った。
その失意がゴッホを絵に向かわせたのであろう。
(†心のデボーション00789)
† 心のデボーション 00790
「忽ちあまたの天の軍勢、御使に加はり、神を讃美して言ふ」 ルカ2:13 大正文語訳聖書
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」 新共同訳聖書
「ジークフリート牧歌」
リヒャルト・ワーグナーは1870年《ジークフリート牧歌》(ドイツ語: Siegfried-Idyll)を作曲し、12月25日にルツェルン州トリープシェンの自宅(現在、リヒャルト・ワーグナー博物館となっている)で二番目の妻コジマ・ワーグナーへの三十三歳の誕生日とクリスマスの贈り物として演奏した。(コジマ・ワーグナーは12月25日が誕生日だった)
1870年12月25日の早朝、弟子のリヒターが事前にチューリヒのオーケストラから選んだ楽人達がワーグナー邸に到着し、台所でチューニングを行い、コジマの寝室脇の曲り階段に音を立てない様に譜面台を並べて準備を始めた。 ワーグナーは階段頂上で指揮をした。演奏は午前7時30分から始まり、寝室のコジマは大変驚いた上に大感激したという。階段上にいた長女イゾルデ(当時5歳)と次女エヴァ(当時3歳)はこの曲を「階段の音楽」と呼んだ。
二千年前、ベツレヘムの羊飼いたちは、イエス誕生の夜、ベツレヘムの夜空に響く天の軍勢の讃歌を聞いた。
地上に一人のいのちが誕生するとき、天に喜びの讃歌が演奏されるのをあなたは聞いただろうか?
(†心のデボーション00790)
コメント