心のデボーション078

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 00771

「されば總て世をふる事、アブラハムよりダビデまで十四代、ダビデよりバビロンに移さるるまで十四代、バビロンに移されてよりキリストまで十四代なり」 マタイ1:17 大正文語訳聖書

「是の故にアブラハムよりダビデに至るまで、すべて代を經(ふ)ること[正に]十四ン代。またダビデよりバビロンに移されるまで[正に]十四ン代。またバビロンに移されてよりキリストに至るまで[正に]十四ン代[なり]。」 永井直治訳聖書

 「系図の第三の区分」

系図の三つの区分は人間の栄光と悲惨を語っている。イスラエルはアブラハムからダビデまで栄光の道を歩んだが、ダビデからバビロン捕囚までは、ユダヤの栄光は失われ悲惨の時代が続く。

「栄光」を失った者はその回復を求める。しかし、まず人がなすべきことは、失われたものの回復ではなく、「栄光とは何か」を根源的に問うことであろう。

それなくして、系図の第三の区分「バビロン捕囚からイエス・キリスト」の意味を知ることはできない。

(†心のデボーション00771)

† 心のデボーション 00772

「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて」 Ⅰヨハネ1:1 大正文語訳聖書

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」 新共同訳聖書

 「信仰」

ヨハネが伝えた「いのちのことば」は「初めからあり」「私が直接聞き」「この目で見」「じっと見つめ」「この手でさわったもの」であった。

信仰は自らの足で踏み、その目で見、じっと注視し、素手でふれるのでなかればならない。

(†心のデボーション00772)

† 心のデボーション 00773

「悲哀は嬉笑に愈る 其は面に憂色を帶るなれば心も善にむかへばなり」 伝道7:3 明治元訳聖書

「悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心はよくなる」 新改訳聖書

 「避客牌」

昔、中国では主人が「謹謝訪客叩門」と書いた「避客牌 ひかくはい」と呼ばれる牌を門に下げると、いかなる客も黙って帰るのが礼儀とされた。

門に「避客牌」が下げられると、どんな用事があっても門を叩くことはできない。黙って引き下がるがよい。だが、時々人の心に下げられる「避客牌」は偽物もあるので注意する必要もある。

(†心のデボーション00773)

† 心のデボーション 00774

「我らの大祭司は我らの弱を思ひ遣ること能はぬ者にあらず、罪を外にして凡ての事、われらと等しく試みられ給へり」 へブル4:15 大正文語訳聖書

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」 新共同訳聖書

 「牧師の弱さ」

牧師は自分の弱さを信徒に見せてはいけないと考えるときがある。不完全な自分に信徒がつまずくのではと恐れる。しかし、牧師も心が傷ついたら信徒に助けを求めてもよいのではないか。つらい思いを信徒と分かち合ってもよい。牧師は弱さをもった人間であり、その弱さにおいて神に召されたのである。それは牧師が、愛こそいやしの源泉であることを、誰よりも深く知るためではないだろうか。

(†心のデボーション00774)

† 心のデボーション 00775

「我凡てのこと正しく行はんと欲するを信ずるなり」 ヘブル13:18 大正文語訳聖書

「何事についても、正しく行動しようと願っている」 口語訳聖書

 「才能の貧しさ」

貧しさは金銭に限られず才能にも及ぶ。ある能力が貧しいのは、その能力によって罪を犯すことのないためである。人は自らの持てるものの犯す罪と戦わなければならない。「持てるものの故に犯す罪」というものがある。

(†心のデボーション00775)

† 心のデボーション 00776

「わが心の愛する者よなんぢは何處にてなんぢの群を牧ひ 午時いづこにて之を息まするや請ふわれに告よ なんぞ面を覆へる者の如くしてなんぢが伴侶の群のかたはらにをるべけんや」 雅歌1:7 明治元訳聖書

「教えてください、わたしの恋い慕う人。あなたはどこで群れを飼い、真昼には、どこで群れを憩わせるのでしょう。牧童たちが飼う群れのそばで、顔を覆って待たなくてもすむように」 新共同訳聖書

 「結婚相手」

ある本で読んだ話。

長男は世界を見渡せる双眼鏡を、二男は世界の果てまで飛べるカーパットを、三男は食べて願い事を言えば必ずかなえられる林檎を与えらた。ある日、長男が双眼鏡で王様の一人娘が瀕死の病に臥せっているのを見つけ、三兄弟は二男のカーペットで駆けつけ、娘は三男の林檎を食べて助かる。そこで三人は自分こそが王女を助けたのだから結婚相手にふさわしいと主張する。さて、王女はどう判断しただろうか。

(†心のデボーション00776)

† 心のデボーション 00777

「されば總て世をふる事、アブラハムよりダビデまで十四代、ダビデよりバビロンに移さるるまで十四代、バビロンに移されてよりキリストまで十四代なり」 マタイ1:17 大正文語訳聖書

「是の故にアブラハムよりダビデに至るまで、すべて代を經(ふ)ること[正に]十四ン代。またダビデよりバビロンに移されるまで[正に]十四ン代。またバビロンに移されてよりキリストに至るまで[正に]十四ン代[なり]。」 永井直治訳聖書

 「人生の区切り」

人生には幾つかの「区切り」がある。それまでとは違った地層が現われる。「バビロン捕囚」といわれる困難な区分はかならずしも時代の変動によらない。それは小さな身体的な変化からでも容易に始まる。

新しい地層を生きるには意識も思考も生き方も変えなければならない。しかし、変化に応じるのは、それまでを充分に生きることによってもたらされる力である。そしてまた、「バビロン捕囚」の期間も最終のものではなく、次の「区分」のあることを忘れてはならない。

(†心のデボーション00777)

† 心のデボーション 00778

「勞する者はその食ふところは多きも少きも快く睡るなり」 伝道5:12 明治元訳聖書

「働く者の眠り快い」 伝道5:11 新共同訳聖書

 「うずくまるの壷」

「うずくまるの壷」と呼ばれる設樂焼の古壷がある。鎌倉末期から室町時代のもので、人が膝を抱えた姿からその名がある。穀物の種壷や油壷として用いた日用雑器である。無傷であれば数千万の値がつく。

地にうずくまって仕事をする人の姿を形づくる美しさである。

(†心のデボーション00778)

† 心のデボーション 00779

「なんぢはその歓樂のかはの水をかれらに飮しめたまはん」 詩篇36:8 明治元訳聖書

「あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる」 口語訳聖書

 「真剣な遊び」

心に「真剣な遊び」のある人は幸せに違いない。その人はたいていの困難を乗り越えることができる。「遊び」とは好きになることで、困難があってもものともしないのである。

(†心のデボーション00779)

† 心のデボーション 00780

「なんぢわが靈魂をして平和を遠くはなれしめたまへば我は福祉をわすれたり」 哀歌3:17 明治元訳聖書

「私のたましいは平安から遠のき、私はしあわせを忘れてしまった」 新改訳聖書

 「自分の幸せ」

「自分が人に愛されるはずがない」と本気で思い込む人も少なくない。他人から好意を寄せられるとどうしてよいかわからなくて、近づく人を冷たく退けてしまう。そのくせ自分は人に常識を超える親切をしようとする。他人の幸せについては考えることができても、自分が幸せになるのを忘れているのかもしれない。

愛の関係は傷ついたり傷つけられたりするが、魂はその中でしか成長しない。

(†心のデボーション00780)

コメント