心のデボーション077

デボーション1
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† 心のデボーション 00761

「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」 マタイ7:7 大正文語訳聖書

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」 新共同訳聖書

 「求め」

求めても与えられないのは、求めるべきものを知らずに求めているからかもしれない。「求め」もまた神から与えられる。まずはじめに「何を求めたらよいか」を神に求めるとよいのかもしれない。

(†心のデボーション00761)

† 心のデボーション 00762

「サムエルそだちぬヱホバこれとともにいましてそのことばをして一も地におちざらしめたまふ」 Ⅰサムエル3:19 明治元訳聖書

「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」 新共同訳聖書

 「ネタを叩く」

お笑いの人々はネタの反応をあらかじめ検討することを「ネタを叩く」というそうである。ネタか受けるか試みて確認するのである。相手があってのお笑いの世界であるが、すべての対話にも、すれ違いにならないように相手に通じたかの確認は必要である。しかし、対話はお笑いの舞台と違って、あらかじめ「ネタを叩く」というわけにはいかない。

(†心のデボーション00762)

† 心のデボーション 00763

「みよ神いはを撃たまへば水ほどばしりいで流あぶれたり」 詩篇78:20 明治元訳聖書

「神が岩を打てば水がほとばしり出て川となり、溢れ流れる」 新共同訳聖書

 「神の川の流れ」

絵本作家ののぞみさんは描けない時には、とにかく思いつくままに絵を描いて「自分の中で流し続ける」と言います。その流れの中から次の作品が生まれてくるのでしょう。

誰の中にもそのような流れがあるのかもしれません。

(†心のデボーション00763)

† 心のデボーション 00764

「人これによりて箴言と譬喩と智慧ある者の言とその隠語とを悟らん」 箴言1:7 明治元訳聖書

「これは箴言と比喩と、知恵のある者の言葉と、その謎とを理解するためのものである」 フランシスコ会訳聖書

 「謎を解く」

ノーベル生理学・医学賞を受けられた大隅良典名誉教授は、「一つの謎が解かれることは一つの謎が生まれること」という言葉を残した。

新たな「謎」の生まれない「解」は本物ではあるまし。

(†心のデボーション00764)

† 心のデボーション 00765

「汝らは各々その前なる石垣の破壞たる處より奔出てハルモンに逃往ん ヱホバこれを言ふ」 アモス4:13 明治元訳聖書

「お前たちは次々に、城壁の破れから引き出され、ヘルモンの方へ投げ出されると、主は言われる」 新共同訳聖書

 「城壁の破れ」

ほとんどの不安は作りだされたものではないか。しかも、本人は自分が不安を作り出しているのに気付かない。それはあり得ないと説明しても、不安は収まらない。不安がないと不安なのである。人間だけが自ら不安を作り出す。不安を除くよりも、その思いが何であるかを神に聴くことのほうが大切かもしれない。まずは、破れた城壁を塞ぎたい。

(†心のデボーション00765)

† 心のデボーション 00766

「世に生存ふる日の間つねにこれを己の許に置て誦み斯してその神ヱホバを畏るることを學びこの律法の一切の言と是等の法度を守りて行ふべし」 申命17:19 明治元訳聖書

「それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならぬ」 新共同訳聖書

 「一書を丹念に読む」

マルクス・アウレリウスは友から「読書は几帳面にすべきこと」を学んだという。(マルクス・アウレリウス「自省録」)

大雑把な読み方から得るものは少ない。一書を丹念に読む。

(†心のデボーション00766)

† 心のデボーション 00767

「歸る途すがら馬車に坐して預言者イザヤの書を讀みゐたり」 使徒8:28 大正文語訳聖書

「彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた」 新改訳聖書

 「読み書き」

読み書きに無関心な人は早く老いるという。ことばにかかわる事柄は脳全体を若返らせる効果があると知られている。

(†心のデボーション00767)

† 心のデボーション 00768

「書をコリントに在る神の教會、即ちいづれの處にありても、我らの主、ただに我等のみならず彼らの主なるイエス・キリストの名を呼び求むる者とともに、聖徒となるべき召を蒙り、キリスト・イエスに在りて潔められたる汝らに贈る」 Ⅰコリント1:2 大正文語訳聖書

「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる」 口語訳聖書

 「至る所で呼び求める」

コリント教会の信徒は「いづれの處にありても」主を求めた。「いづれの處にありても」は「あらん限りの所で」の意味。その場所がどこであれ、その所で神に祈った。

地に神の居られない場所はどこにもない。

(†心のデボーション00768)

† 心のデボーション 00769

「ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り」 マタイ2:3 大正文語訳聖書

「ヘロデ王之を聞きて狼狽(うろた)へしが、エルザレムも亦挙(こぞ)りて然ありき」 ラゲ訳聖書

 「うろたえる」

「うろたえる ταράσσω タラスソー」は「水を乱す、掻き回す、掻き乱す」で「動揺して心が波立つ」を意味する。ラテン語は turbido で「濁す」の意味である。

悩みは人の心を搔き回し、濁す。そのため先を見ることができない。

(†心のデボーション00769)

† 心のデボーション 00770

「僞善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明かに見えて、兄弟の目より塵を取りのぞき得ん」 マタイ7:5 大正文語訳聖書

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」 新共同訳聖書

 「自分を変える」

相手を変えようと思うなら自分も変わらなければいけない。自分を変えずに相手を変えることはできない。

自分を変えたからといって相手も変わるべきだと考えるのも早計である。本当に変わったかを相手が確認するのに時間がかかるからだ。

(†心のデボーション00770)

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