心のデボーション075

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 00741

「今爾ヱホバをさして我にわが後にてわが子孫を斷ずわが名をわが父の家に滅せざらんことを誓へと」 Ⅰサムエル24:21 明治元訳聖書

「さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを」 新改訳聖書

 「二つの名前」

在日韓国人の方からの手紙には、日本名と韓国名の二つが併記してあり、『どちらでも、お選びください』とあった。どちらを選ぶにも半分を否定するような選択で、一方を選べば他方を否定することになりそうな気がして、私はたじろいだ。この方は、自分がそういう立場に生きているということを知ってほしかったのかもしれない。

「系図」には、その名以外に何も知られない人々がいる。しかし、「一つの名」に生きることすら難しい人もいる。

創氏改名

1939年、大日本帝国朝鮮総督は本籍を朝鮮にもつ人々に「氏」を創設し、「名」を改める「創氏改名」政策をとった。作家石(ソ)日(ギル)氏は小説『おおいなる時を求めて』で、その時の様子を描いている。

「教師は出席をとって、日本名に変えていない生徒に『家に帰って、日本の名前を持ってこい』と言って、教室から追い出した。教室から出された生徒は、帰って事情を話しても父親がおいそれと名を変えるはずがなく、生徒は途方にくれ、海を眺めたり、山に行ったりして時間をつぶすが、やがて不登校をくりかえして中途退学に追い込まれた」(石(ソ)日(ギル) 『おおいなる時を求めて』より)

バビロニア捕囚により、ユダヤ人の多くがユダヤ世界を離れ、流浪の民となったユダヤ人も「二つの名前」の悲しみを経験した民であった。

(†心のデボーション00741 マタイ1:13)

† 心のデボーション 00742

「縦(たと)ひかれら忘るることありとも我はなんぢを忘るることなし」 イザヤ49:15 明治元訳聖書

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎のこをあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」 新改訳聖書

 「我はなんぢを忘るることなし」

母は乳飲み子を忘れはしない。しかし、たとえ私を生んだ母が私を忘れることがあったとしても、私を創られた神は私を忘れはしない。

人にはイエスの系図の後半の私の知らない人々のように、「忘れられる」時期がある。しかし、それは空白ではない。時の刻むもので無意味なものは何一つない。

(†心のデボーション00742 マタイ1:14)

† 心のデボーション 00743

「バビロンに移されて後、エコニヤ、サラテルを生み、サラテル、ゾロバベルを生み」 マタイ1:12 大正文語訳聖書

 「民族捕囚」

イスラエルの民はその歴史において幾度かの「民族捕囚」を経験した。その都度、イスラエルの民は「神への信仰」を現実の歴史の中で経験することになった。

日本人の歴史には「民族捕囚」は起こらなかった。国が滅びる危機の中で信仰を確かめ、自己を見つめることは未だ経験していない。そのことは日本人キリスト者が見つめるべき新たな経験的課題ではないだろうか。

これから来る「日本」についての、そしてそこに生きる者としての、求める「国」がどのようなものであるのだろうか。「日本人の民族捕囚」は日本に住みながら日本人としての私を見失ったところで、すでに始まっている。

(†心のデボーション00743)

† 心のデボーション 00744

「小事に忠なる者は大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり」 ルカ16:10 大正文語訳聖書

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」 新共同訳聖書

 「ごく小さな事」

トイレが汚れていたら、そのデパートで高価な買い物をする気にはなれない。トイレなど些細な事のようでも、意外と間違いがない。

小さい事が大切な意味をもっている。小さい中で最も小さいと思われる事が、重大なことの中で最も重い意味を含んでいる。「ごく小さい事に忠実な人」とは「ごく小さい事を信頼し、その価値を信じぬく人」のことである。

(†心のデボーション00744)

† 心のデボーション 00745

「その食卓より落つる物にて飽かんと思ふ。而して犬ども來りて其の腫物を舐れり」 ルカ16:21 大正文語訳聖書

「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」 新改訳聖書

 「ラザロの犬」

ラザロは全身おできができた貧しい男で、金持ちの家の門前で、「食卓から落ちる物で腹をみたしたい」と思っていた。ただ、犬がやって来て彼のおできを舐めていた。

古代ローマの医療施設でもあったアスルレピオス神殿の聖域内では犬が放し飼いされており、患者の傷口をなめさせる治療が行われたという。犬の唾液には殺菌効果があることが現代の研究からも知られている。

ラザロにはおできを舐めてくれる犬が唯一の慰めだったかもしれない。

治療者とは「ラザロの犬」のことかもしれない。

(†心のデボーション00745)

† 心のデボーション 00746

「心のたのしみは良薬なり 霊魂のうれひは骨を枯す」 箴言17:22 明治元訳聖書

「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす」 口語訳聖書

 「心の楽しみ」

ギリシャ語で「薬」は「φὰρμακον ファルマコン」で「治療薬、毒薬、解毒剤」をまとめて「薬 φὰρμακον ファルマコン」と呼んだ。「何かを作り出す手段」を意味した。

「薬」は「治療薬」ばかりでなく「毒薬」とも「解毒剤」ともなる。

(†心のデボーション00746)

† 心のデボーション 00747

「ダビデ、ウリヤの妻たりし女によりてソロモンを生み」 マタイ1:6 大正文語訳聖書

「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」 新共同訳聖書

 「不都合な事実」

ダビデはユダヤ人の最も誇りとする人物の一人である。そしてウリヤの妻「‎בת־שׁוּעַ バト・シェバ」のことは最も触れたくない出来事である。メシアの系図は不都合な事実を隠さない。

触れてほしいことよりも、触れられたくない出来事によって人の心は深耕される。

(†心のデボーション00747)

† 心のデボーション 00748

「わが榮よさめよ 筝よ琴よさめよ われ黎明をよびさまさん」 詩篇57:8 明治元訳聖書

「わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします」 口語訳聖書

 「くしゃみ」

昔、くしゃみをすると早死にするというので「くさめ、くさめ」と唱えると防ぐことができるという俗信があった。(歌舞伎では「くっさめ」という)くしゃみをすると鼻から魂が抜けだしてしまうというのである。

徒然草には、風邪を引いた若君の快癒を願って「休息万命 くそくまんみょう」と唱えたとあり、それを早口にすると「くさめ、くさめ」となるという説もある。

風邪のためにぐったりするのは魂がくしゃみで飛び出すためかもしれない。熱がひけば魂は戻って来る。

心配なのは一旦は飛び出た魂が容易には戻ってこないことだ。ただの風邪ではないかもしれない。

(†心のデボーション00748)

† 心のデボーション 00749

「おのおの吝むことなく、強ひてすることなく、その心に定めし如くせよ。神は喜びて與ふる人を愛し給へばなり」 Ⅱコリント9:7 大正文語訳聖書

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」 新改訳聖書

 「悲しみながら」

いやいやする献金ほどむなしいものはない。「いやいや」とは「悲しみながら」の意味である。お金を失うことを悲しみながら、しぶしぶ献げる。献げることは蒔くことだとパウロは語る。失うのではなく、やがて豊かに刈り取ることになる。多く蒔きさえすれば多く刈り取るというのではなく、心に思い定めた通りにするのが原則である。

(†心のデボーション00749)

† 心のデボーション 00750

「水路を塞ぎて漏ざらしめ隱れたる寳物を光明に取いだすなり」 ヨブ28:11 明治元訳聖書

「川の源をせき止め、水に隠れていたものも光のもとに出す」 新共同訳聖書

 「隠されたもの」

「主のみ業は驚くべく、そのみ働きは人びとより隠さる」 ベン=シラ11:4 日本聖公会訳

主のみ業はよきものである。しかし、驚くべきは、それらがことごとく「隠されている」ことである。隠されたことの一つが現わされるごとに喜び驚きと共に来る。

(†心のデボーション00750)

コメント