心のデボーション074

デボーション1
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† 心のデボーション 00731

「もし神、怒をあらはし權力を示さんと思しつつも、なほ大なる寛容をもて、滅亡に備れる怒の器を忍び」 ロマ9:22 大正文語訳聖書

「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすいれば」 新共同訳聖書

 「愛は怒らず」

忍耐とは怒りを注ぐべき器にあわれみを盛ることである。

「主の忍耐が私の救い」です。(Ⅱペテロ3:15)

愛は「怒らず」「すべてを耐え忍ぶ」。しかし、人生にはあわれみを控えることが忍耐であることもおこる。それが忍耐と呼べるかどうかは、怒りからではなく愛から出たかどうかを見ればわかる。

(†心のデボーション00731)

† 心のデボーション 00732

「ヱホバをおもふわが思念はたのしみ深からん われヱホバによりて喜ぶべし」 詩篇104:34 明治元訳聖書

「わたしの思いが主に喜ばれるように。主の故にわたしは喜ぶ」 フランシスコ会訳聖書

 「喜びをなせ」

「主のなんじにゆだねたまいしものを受け、なんじらを天のみ国に召したもう者に感謝をささげて、喜びをなせ」 第二エズラ2:37 日本聖公会訳 アポクリファ

主がゆだねられたものを受け取る者は、感謝なきところで感謝をなし、喜びなきところで喜びをなす。

感謝をなすことなきところに感謝なく、喜びをなすことなきところにに喜びなし。

(†心のデボーション00732)

† 心のデボーション 00733

「能力をもて汝らの凡て善に就ける願と信仰の業とを成就せしめ給はんことなり」 Ⅱテサロニケ1:11 大正文語訳聖書

「また、御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように」 新改訳聖書

 「善を慕う」

善を知るには悪を知らなければならない。善人という善とか悪人という悪ではなく、一人の人間の中にある善と悪である。いかなる善もその影としての悪が、そしていかなる悪にもその影に善が存在する。影を消すことはできない。

(†心のデボーション00733)

† 心のデボーション 00734

「視よ、處女(おとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱(とな)へられん』之を釋(と)けば、神われらと偕に在すといふ意(こころ)なり」 マタイ1:23 大正文語訳聖書

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 新共同訳聖書

 「私の神」

「インマヌエル 神は我々と共におられる」は人間の願いによるのではなく、神の意志による。

人は都合の良い時にだけ「インマヌエル」を口にするが、都合の悪い時には「今はちょっとご遠慮ください」という。

「インマヌエル」が神の御意志によるとき、神は我らのあらゆる事柄に共におられるのであって、人は自らの都合によって拒むことはできない。私の都合の良い時も、悪い時も、神は「私の神」である。

(†心のデボーション00734)

† 心のデボーション 00735

「爰にヱホバ、アブラムに言たまひけるは汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至れ」 創世12:1 明治元訳聖書

「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』 新改訳聖書

 「出発」

出発とは何かから離れ、未知の地に歩みだすことである。離れるべきものが不明であると未知の地も確かさをもたない。

(†心のデボーション00735)

† 心のデボーション 00736

「またユダに於ては神その力をいだして人々に心を一にせしめ王と牧伯等がヱホバの言に依て傳へし命令を之に行はしむ」 Ⅱ歴代30:12 明治元訳聖書

「また、ユダに神の御手が働いて、人々の心が一つにされ、主の言葉に従って王と高官の命令が実行に移された」 新共同訳聖書

 「阿吽の呼吸」

「阿吽の呼吸」の「阿」は悉曇文字(梵字)では、口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音で、始まりと終わりを表す言葉とされる。転じて、2人が呼吸を合わせて共に行動しているさまを「阿吽の呼吸、阿吽の仲」という。

一人が始めをつくれば、一人はそれを受けて終わりをつくる関係である。

神の御手が働くところに「阿吽」がある。

「阿」でいくかか「吽」かは、自分で決めることではないようだ。

(†心のデボーション00736)

† 心のデボーション 00737

「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(きざ)めり なんぢの石垣はつねにわが前にあり」 イザヤ49:16 明治元訳聖書

「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」 イザヤ49:15~16 明治元訳聖書

 「たなごころ」

マタイ1:14に記される人々を我々は知らない。彼等は記録もない「名もなき人々」である。しかし、その名は神の手に刻み込まれている。神は「私」の名を記憶したもう。それゆえに私は「名もなき人」として生きることができる。

「たなごころ」は漢字で「掌」と書くが、「たな」は「手」、「こころ」は「心」で「手の心」すなわち「手の中心」を意味する。神はわたしを「手の中心」に受けとめ、その名を刻みつけられる。失われることはない。

(†心のデボーション00737 マタイ1:14)

† 心のデボーション 00738

「兄弟よ、われらの主イエス・キリストに在りて、汝等につき我が有てる誇によりて誓ひ、我は日々に死すと言ふ」 Ⅰコリント15:31 大正文語訳聖書

「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇りにかけて、誓って言えることです」 新改訳聖書

 「クロブーク」

ギリシャ正教の聖職者はクロブーク(ロシア語: Клобук, 英語: klobuk)と呼ばれる帽子を着用する。カミラフス

カと呼ばれる帽子にベールをつけたものがクロブークである。ベールはかぶる者の背丈に合わせてあり、修道士が亡くなると、ひざをかかめさせてこのベールで包み埋葬する。正教の修道士はつねに「墓」を背負って歩くのだという。

(†心のデボーション00738)

† 心のデボーション 00739

「その母マリヤ、ヨセフと許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ偕にならざりしに、聖靈によりて孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顯れたり」 マタイ1:18 大正文語訳聖書

「それ耶穌キリストのうまれたまふことさのごとし その母マリアはヨセフと契約していまだともにをらざるに 聖靈に感じてはらみしことあらはれしが」 ヘボン訳聖書

 「聖なる契約」

ヘボン訳聖書はマタイ1:18を「それ耶穌キリストのうまれたまふことさのごとし その母マリアはヨセフと契約していまだともにをらざるに 聖靈に感じてはらみしことあらはれしが」として、「結婚」を「契約」と理解する。

「結婚」は男と女が神の前で結ぶ「聖なる契約」あって、何人もその結びを解くことはできない。

(†心のデボーション00739)

† 心のデボーション 00740

「懶惰ところよりして屋背は落ち 手を垂をるところよりして家屋は漏る」 伝道10:18 明治元訳聖書

「怠惰によって屋根は落ち、無精によって家は漏る」 口語訳聖書

 「無をつくる人」

フランス語でfainéant は「無を作る人」で「怠惰な人」を意味する。骨の折れる仕事に対して、やる気のおきない人である。

漢字の「怠」は「台」+「心」で、「台」は「止」に通じ、心がとどまることを意味する。

「怠惰な人」は心がゆるみ、無を作り続ける。怠けているのではない。

(†心のデボーション00740)

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