心のデボーション073

デボーション1
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† 心のデボーション 00721

「わがたましひよ默してただ神をまて そはわがのぞみは神よりいづ」 詩篇62:5 明治元訳聖書

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」 新改訳聖書

 「望みなき民」

バビロン捕囚はユダヤ民族の悲劇であった。しかし、民族滅亡の危機からイスラエルにメシア待望という強い「希望」が生み出されてきた。

その民族が存亡の危機において「希望」を生み出すに至らないこと、すなわち「望みなき民」となることこそが民族の真の危機である。「滅びる民」は危機感もなく滅亡への道を歩むのである。

(†心のデボーション00721 マタイ1:11)

† 心のデボーション 00722

「懼るな、我は最先なり、最後なり」 黙示1:17 大正文語訳聖書

「恐れるな。わたしは初めであり、終わりである」 口語訳聖書

 「私という糸玉」

漢字で「終わり」の「終」は「糸」と「冬」からなる。この「糸」は、糸玉のことで、「最後まで巻き取られた糸玉」を表している。そこから「終」は糸の結び目、終わりの意味を表す。篆文は季節の終わりの冬に糸を付したものである。

「私」という糸玉は、神にはじまり、神によって最後まで巻き取られる。

(†心のデボーション00722)

† 心のデボーション 00723

「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり」 マタイ5:29 大正文語訳聖書

「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」 新共同訳聖書

 「考える人」

オーギュスト・ロダンは1880年、装飾美術博物館(Musée des Arts Décoratifs)の門をダンテの『神曲』に着想を得て制作し「地獄の門」と名づけた。「考える人」は、その門の上に置かれ、熟考するダンテを表しているといわれる。後に「地獄の門」から切り離され、「詩人 Le Poète」という名によって、1888年にコペンハーゲンで初公開された。
「考える人」は門の頂きには「一切の希望を捨てよ」と記された地獄の門をくぐる者たちの運命を熟考している。

右ひじを左の膝につける姿勢は、とってみるとかなり苦しい。人間について思惟するには、「考える人」のもりあがった筋肉や異常に大きな手足の力強さが必要なのかもしれない。

(†心のデボーション00723)

† 心のデボーション 00724

「その母マリヤ、ヨセフと許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ偕にならざりしに、聖靈によりて孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顯れたり」マタイ1:18 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠っていることが分かった」 フランシスコ会訳聖書

 「イエスの受肉」

ヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と告げる。(ヨハネ1:1)

「ことば」は万物を創造し、「いのち」であった。(ヨハネ1:3~4) そして、「ことば」は「肉となって、わたしたちの内に宿られた」。(ヨハネ1:14)

イエスの受肉によって、神のことばは「創造の力」、「いのち」として私(肉)に宿る。

(†心のデボーション00724)

† 心のデボーション 00725

「バビロンに移さるる頃、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟らとを生めり」 マタイ1:11 大正文語訳聖書

「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」 新共同訳聖書

 「教会のバビロン捕囚」

マルティン・ルターは1520年にラテン語で書かれた『教会のバビロニア捕囚』(De captivitate Babylonica ecclesiae praeludium)を発表した。教皇庁によってサクラメント(秘跡)が捕囚のみじめな状態にあるとしてそこからの開放を論じたものである。

教会は捕囚から解放されたのだろうか? 現在もなお、教会は何者かによって「捕らわれ」の状態にあるのではないだろうか?

(†心のデボーション00725)

† 心のデボーション 00726

「彼は葡萄の樹のその熟せざる果を振落す」 ヨブ15:33 明治元訳聖書

「その未熟の実は振い落され」 新改訳聖書

 「熟せざる果」

「彼はまだ青い」は未熟をいう。「青侍」は公家につかえた身分の低い六位の侍で、青侍の女房は「青女房」である。「青」は「青い柿」の未熟を指す。

柿の「青」にはやがて時がくれば熟する「赤」が含まれている。しかし、いつになっても赤くならない「青い実」は「熟せざる果」で、振い落される。

(†心のデボーション00726)

† 心のデボーション 00727

「その聖徒の途すぢを守りたまへばなり」 箴言2:8 明治元訳聖書

「その聖徒たちの道筋を守られる」 口語訳聖書

 「思考の迷路」

思考が出口の見えない迷路にはいりこんでしまったと気づいたら、しめたものである。自分が出口もなく思考を続けるのが、「思考の迷路」だからである。ここが迷路と気づくとき、私はすでに脱出の出口にいる。

(†心のデボーション00727)

† 心のデボーション 00728

「ヱホバをおもふわが思念はたのしみ深からん われヱホバによりて喜ぶべし」 詩篇104:34 明治元訳聖書

「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう」 新改訳聖書

 「メモの反故紙」

私の部屋にはいくつかの屑籠がある。たとえばメモの反故紙を捨てる屑籠は決まっていて、近くに別の屑籠があっても、決まった屑籠まで捨てにいく。

活かされることもなく消えていく小さな気づきにも、その行き先を決めておきたいのだ。

(†心のデボーション00728)

† 心のデボーション 00729

「多く學べば體疲る」 伝道12:12 明治元訳聖書

「多く学べばからだが疲れる」 口語訳聖書

 「多く学べば」

パスカルは疲れをとるのに適当な時があるという。とるべきでない時に疲れをとろうとすれば、よけいに疲れるというのだ。

つまり、疲れがとれたのは、それが適当な時になされたのであり、疲れがとれないのは、時が不適当ということなのか。かくも「適当な時」がわからないのであれば、適度に疲れながら、疲れをとるのがよさそうだ。

(†心のデボーション00729)

† 心のデボーション 00730

「愛は寛容にして慈悲あり」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書

「愛は寛容であり、愛は親切です」 新改訳聖書

 「親切と寛容」

「慈悲」は「親切」の意味。

ビル・ゲイツは「機会」という名の雑誌のインタビュウを受け、「最も待っていてはいけないものは何か」と質問された。記者からの「機会」という答えを期待しての質問だったが、彼は「孝行は待っていてはいけないものです」と答えたという。

「愛は親切です」新改訳聖書。相手への親切は待っていてはいけない。だが、すべての「親切」は相手からの報いに対して寛容でなければならない。

「寛容」を欠いた「親切」ほど扱いにくいものはない。

(†心のデボーション00730)

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