心のデボーション072

デボーション1
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† 心のデボーション 00711

「我ら土に屬する者の形を有てるごとく、天に屬する者の形をも有つべし」 Ⅰコリント15:49 大正文語訳聖書

「わたちたちは、土からでてきたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」 新共同訳聖書

 「天に屬する者の形」

人がそれぞれ肉の形を有するように、天に属することのたしかな形がそれぞれに与えられている。

「天上のかたち」は、何と貧しい現実の中に与えられることだろうか。大切なことは、それを生活のかたちとして整えることである。かたちを整えには「らしく振舞う」ことも有効である。それらしく思い、言葉を選び、動いていくうちに、天は私たちの日常に移されてくる。内容が大切でかたちはどうでもよいという考えは、この場合、正しくないかもしれない。

(†心のデボーション00711)

† 心のデボーション 00712

「汝またこれを汝の手に結びて號となし汝の目の間におきて誌となし」 申命記6:8 明治元訳聖書

「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ」 新共同訳聖書

 「合印」

昔、戦場で戦う者は相打ちにならぬように馬や笠に「合印 (あいじるし)」をつけた。

「合印」をつけると味方に助けてもらえるが、その分敵に知られて攻撃される機会も増える。そこで味方にははっきり分かり、敵には敵の仲間と思わせるような「合印」があれば都合がよい。しかし、それをつけると自分が何者かわからなくなりそうでもある。

神は「御言葉」を「合印」として与えられる。

(†心のデボーション00712)

† 心のデボーション 00713

「ロト乃ちヨルダンの低地を盡く撰とりて東に徙れり斯彼等彼此に別たり」 創世記13:11 明治元訳聖書

「ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは左右に別れた」 新共同訳聖書

 「ロトの別れ」

植えた憶えのない桜草が咲いた。お隣の奥さんが自分の庭に桜草が今年は出ないと話している。植物には足がある。好きなところに移ってくる。ということは、うちの庭から余所に行った草もあるに違いない。足音も立てず、暇も告げず、それは密やかに去っていく。どこか好きなところで咲いていてくれればと思わせるような、行き届いた姿の消し方である。だが、ロトの場合はそうはいかなかった。

(†心のデボーション00713)

† 心のデボーション 00714

「バラム答へてバラクの臣僕等に言けるは假令バラクその家に盈るほどの金銀を我に與ふるとも我は事の大小を諭ずわが神ヱホバの言を踰ては何をも爲ことを得ず」 民数22:18 大正文語訳聖書

「バラムはバラクの家臣に答えた。『たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わずなにもできません』」 新共同訳聖書

 「預言者バラム」

預言者バラムは、「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わずなにもできません」(民数22:19 新共同訳聖書)と言いながら、神の望まないことを行おうとする。(民数22~23章)

「正しい傲慢」と「悪い謙遜」があるという。二つは一つかもしれない。バラクの謙遜は傲慢を呼び起こす。彼は「家に満ちる金銀を贈ってくれ」と要求しているのである。

(†心のデボーション00714)

† 心のデボーション 00715

「その歌を歌ひ讃美をなし始むるに當りてヱホバ伏兵を設けかのユダに攻きたれるアンモン、モアブ、セイル山の子孫をなやましたまひければ彼ら打敗られたり」 Ⅱ歴代誌20:22 明治元訳聖書

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた」 新改訳聖書

 「讃美の戦い」

アモン人、モアブ人、セイル山の人々の連合軍が攻撃したとき、ユダとエルサレムの住人は「主の前にひれ伏して主を礼拝し、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した」(Ⅰ歴代20:18~19)

彼らが「賛美の声をあげ始めたとき」、勝利が来た。

「讃美」によってユダとエルサレムの住人はアモン人、モアブ人、セイル山の人々の連合軍と戦った。これが「神の戦い」と呼ばれている。(Ⅱ歴代20:15)

(†心のデボーション00715)

† 心のデボーション 00716

「ペテロなほ幻影に就きて打案じゐたるに、御靈いひ給ふ」 使徒10:19 大正文語訳聖書

「ペテロが幻について思い巡らせてしるとき、御霊が彼にこう言われた」 新改訳聖書

 「自分の心を揺り動かす」

アイヌ語で、思案をめぐらすことを、「自分で自分の心を揺り動かし続ける」というそうである。

心が定まるまで続ける。

わかろうとするのではなく、「自分で自分の心を揺り動かし続けて」いると、御霊が語りかけてくださるかもしれない。

(†心のデボーション00716)

† 心のデボーション 00717

「汝我面の前に我の外何物をも神とすべからず」 出エジプト20:3 明治元訳聖書

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」 新共同訳聖書

 「異なる神」

マナセをはじめ歴代のイスラエル・ユダの諸王が「偶像崇拝」に陥っている。ヤーヴェの神を捨て、バアルやアシュラなどの異教の神々を礼拝した。

そのことは「異教者」から見れば、「正しい神」への立ち返りである。

何が正しい宗教であるかは、その信仰によって築かれる「人間」を問うしかない。バアルにはバアルの、アシュラにはアシュラの人間が形づくられる。宗教とは「人間とは何か」という問いに対する実存的な答えである。

加えて、人間には「異なる神」へのことさらな愛着があるようだ。その場合、「異なる神」は「正しい神」あっての思いから来る。

(†心のデボーション00717 マタイ1:10)

† 心のデボーション 00718

「かれ聲をいだせば天に衆の水ありかれ雲を地の極よりいだし電と雨をおこし風をその府庫よりいだす」 エレミヤ10:13 明治元訳聖書

「主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される」 新改訳聖書

 「あいの風」

日本海の沿岸部で沖から「あいの風」が吹くという。「あい、うら風」とも言われる。魚貝や海藻などの珍味を吹き寄せてくれる、ありがたい風である。夏から初秋に多く、北前船は、この風に乗って日本海を上方方面へ航行したという。

神が天の倉から出される「風」は「あいの風」に違いない。穏やかで強くなく、恵みを運び、出発をうながしてくれる。

(†心のデボーション00718)

† 心のデボーション 00719

「されば凡ての穢と溢るる惡とを捨て、柔和をもて其の植ゑられたる所の靈魂を救ひ得る言を受けよ」 ヤコブ1:21 大正文語訳聖書

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」 新共同訳聖書

 「自分を捨てる」

失敗したかもしれないが、あなたが「失敗」なのではない。失ったかもしれないが、あなた自身が失われたのでもない。失敗はやり直せばよいし、失ったものなら取り戻すこともできる。しかし、人は小さな失敗からも、それで自分を終わりにしてしまうところがある。自分を捨てた人は、やり直すことも、取り戻すこともしない。神を見失ってしまったからではないだろうか。

(†心のデボーション00719)

† 心のデボーション 00720

「汝おのれの口をもて自ら讃むることなく人をして己を讃めしめよ 自己の口唇をもてせず 他人をして己をほめしめよ」 箴言27:2 明治元訳聖書

「自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ」 新共同訳聖書

 「ほめ言葉」

この箴言の前半から「自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえるようにしよう」と考えてはいけない。後半で「自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ」と言われている。

「異邦人の語る言葉」とは「理解できない言葉」のことである。たとえ彼らに褒められても、その言葉の意味を理解することはできない。

自分の口で自分をほめず、人がほめてくれても「異邦人の言葉」のように聞け。

(†心のデボーション00720)

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