† 心のデボーション 00701
「なんぢの屋のゆたかなるによりてことごとく飽ことをえん なんぢはその歓樂のかはの水をかれらに飮しめたまはん」 詩篇36:8 明治元訳聖書
「彼らはあなたの家の豊かさを、心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます」 新改訳聖書
「長屋の花見」
ユーモア humor の語源は「体液」を意味するラテン語 humores フモーレス と言われる。これがないと生きてはいけないものを意味する。
英語 coping humor はストレスをユーモアで coping 「対応、対処する」して、うまく体をかわすことである。
大家と貧乏長屋の一同が花見に繰り出す、落語の「長屋の花見」だと思えば良い。本物の花見をしている連中よもも何だか楽しそうだ。
(†心のデボーション00701)
† 心のデボーション 00702
「われ安けかりしときに謂く とこしへに動かさるることなからんと」 詩篇30:6 明治元訳聖書
「私が栄えたときに、私はこう言った。私は決してゆるがされない」 新改訳聖書
「主は与え、主は取られる」
絶頂の時には、その繁栄がゆるぎないものに感じる。「私の力、私の手の力が、この宮を築き上げた」(申命記8:17)という声が心地よく耳をくすぐる。わずかの成功も私を有頂天にする。その時、すでに試みがはじまっている。人を神から離すのは、困難ではなく繁栄ではないだろうか。人生は必ず変化する。
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と語るヨブとともにありたい。
(†心のデボーション00702)
† 心のデボーション 00703
「汝ナイルの水を飮んとてエジプトの路にあるは何ゆゑぞまた河の水を飮んとてアツスリヤの路にあるは何故ぞ」 エレミヤ2:18 明治元訳聖書
「今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどういうことか。ユーフラテス川の水を飲みにアッシリアの道に向かうとは、いったいどういうことか」 新改訳聖書
「あちらの水」
イスラエルの民は「水」を求めて今日はナイル川に、明日はユーフラテス川に向かう。神を捨ててエジプトの神、アッシリアの神の恵みを求める。
私たちは何と簡単に道を変えることか。あちらの水は、今飲む水よりも甘いと思うからなのか。それとも今飲む水が枯れてしまったからなのか。
(†心のデボーション00703)
† 心のデボーション 00704
「ヱホバ汝等のために戰ひたまはん汝等は靜りて居るべし」 出エジプト14:14 明治元訳聖書
「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」 新改訳聖書
「靜りて居るべし」
主が私のために戦われるときには「黙っていなければならない」。それは「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15 新改訳聖書)ためである。
(†心のデボーション00704)
† 心のデボーション 00705
「おほよそ神より生るる者は世に勝つ、世に勝つ勝利は我らの信仰なり」 Ⅰヨハネ5:4 大正文語訳聖書
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」 新共同訳聖書
「世に勝つ勝利」
日本人には「勝たなくてもいい、負けなければ」という人生観がある。勝つために、どこまでもがんばることは必ずしも歓迎されない。「頑張る」は「眼張る」から転じたもので「目をつける」の意味とされるが、「我を張る」から転じたとの説もある。
信仰によって世に勝とうなどとは思わない。ただ、信仰には世に負けるわけにはいかない歩みがある。
(†心のデボーション00705)
† 心のデボーション 00706
「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」 マタイ5:5 大正文語訳聖書
「温柔(をんじゅう)なる者は福(さいはひ)なり、彼等地を嗣(つ)がんとすればなり」 日本聖公会訳聖書
「温柔(をんじゅう)なる心」
「子よ、柔和な心で、お前の仕事を果たせ。そうすれば、お前は神に喜ばれる人に愛される」 ベン=シラ3:17 フランシスコ会訳聖書
「柔和な心」とは、静穏で辛抱強い心のことである。「温柔(をんじゅう)なる心」によって成し遂げられる仕事は神の人に愛される。
(†心のデボーション00706)
† 心のデボーション 00707
「命令の目的は清き心と善き良心と僞りなき信仰とより出づる愛にあり」 Ⅰテモテ1:5 大正文語訳聖書
「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」 新改訳聖書
「本音」
人とうまく付き合うには、むやみに本音を語るべきではない。しかし、たとえ難しくても本音を語らなければならないときがある。悲しみながら語る。だが、本音の多くは正しく伝わらない。
(†心のデボーション00707)
† 心のデボーション 00708
「ここにイエス、パンを取りて謝し、坐したる人々に分ちあたへ、また肴をも然なして、その欲するほど與へ給ふ」 ヨハネ6:11 大正文語訳聖書
「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」 新改訳聖書
「いのちのパン」
イエスの時代には、パンを取り、家族の各々に配るのは父親の役割とされた。ほの暗い灯火の下で、神に祈りをささげパンを割る父親の姿に、子どもたちは「神への感謝と敬い」を学んだに違いない。父親から手渡されるのは子どものかけがえのないいのちである。父親から自分のパンを手渡されることがなくなると、子どもは存在することの喜びや意味を感じられなくなる。
(†心のデボーション00708)
† 心のデボーション 00709
「王その律法の書の言を聞(きく)やその衣を裂り」 Ⅱ列王22:11 明治元訳聖書
「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた」 新改訳聖書
「宗教改革」
ヨシヤは神殿の修理を命じ、その最中に大祭司ヒルキヤによって神殿に保管されていた「律法の書」が発見され、ヨシヤはその「律法の書」に基づいて宗教改革を行った。
すべの改革に先立つのは神の言葉である。神の言葉は常に新しく発見されることによって現実を変えていく。
現実が変わらなくなったとき、私たちは「神の言葉」を失っている。
(†心のデボーション00709 マタイ1:10)
† 心のデボーション 00710
「バビロンに徙(うつ)さるる時」 マタイ1:11 明治元訳聖書
「バビロンへ移住させられたころ」 新共同訳聖書
「我が家何処や」
「移住 μετοικεσία メトイケシア metoikesia {met-oy-kes-ee‘-ah}」は「μετά 変わる + οἶκος 家」で「転居」の意味。イスラエルの「バビロンへの強制移住」をあらわす。
明治元訳は「バビロンに徙(うつ)さる」と訳す。「徙 シ」は「止 あし」+「いく」で陸地を足をひきずり、ずるずると歩むこと。
イスラエルの民は絶望的な悲しみを胸に、一歩一歩、重い足を運んだ。
絶滅収容所でガス室に連行されたチェコのユダヤ人の中にはチェコスロヴァキア国歌を歌いながら死んで行った人々がいた。
我が家何処や
我が家何処や
水は草原を横切り
松は岩にざわめく
庭には春の花が輝き
眼前に広がる地上の楽園
これぞかの美しき国
我が家チェコの国
我が家チェコの国
わが故郷はいずこ? わが故郷はいずこ?
君知るや、神の嘉(よ)みせし地で、
溌剌たる体に細やかな心、
聡(さと)しき頭、繁栄を導く、
そしてその力、圧迫を撥ね返す。
それは、チェコ人の栄えある種族―
チェコ人の間に―わが故郷あり!
(チェコスロヴァキア国歌)
(†心のデボーション00710)
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