心のデボーション070

デボーション1
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† 心のデボーション 00691

「ヱホバかくいひたまふ汝等の先祖は我に何の惡事ありしを見て我に遠かり 虛しき物にしたがひて虛しくなりしや」 エレミヤ2:5 明治元訳聖書

「主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものになったのか』」 新改訳聖書

 「むなしさ」

「むなしさ」は私が神から遠く離れたことによる。それを満たそうとして「むなしいもの」の後を追いかけた。それで、私はますます「むなしいもの」になったのだ。

(†心のデボーション00691)

† 心のデボーション 00692

「妄りに言をいだし劍をもて刺がごとくする者あり されど智慧ある者の舌は人をいやす」 箴言12:18 明治元訳聖書

「つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし、知恵ある人の舌は人をいやす」 口語訳聖書

 「連呼」

選挙カーに乗って候補者の名前を叫んでいると、そのうち、この人しかいないと本気で思うようになるという。繰り返し口に出すうちに、それがあたかも現実に思えてくる。

しかし、熱狂が呼び出すものが人を幸せにしたためしはない。

(†心のデボーション00692)

† 心のデボーション 00693

「わが子よ惡者なんぢ誘ふとも從ふことなかれ」 箴言1:10 明治元訳聖書

「わが子よ、たとえ罪人どもが、お前をそそのかしても、その手に乗るな」 フランシスコ会訳聖書

 「悪しき友」

我々はわが子がすべての人に愛される子どもになるようにと望む。だが、箴言は友を選ぶことのできる子どもになることを求める。

悪しき友に誘われても、「彼らといっしょに道を歩まない」覚悟のある子どもになって欲しい。

「我が子よ彼等とともに途を歩むことなかれ 汝の足を禁めてその路にゆくこと勿れ」 箴言1:15 明治元訳聖書

(†心のデボーション00693)

† 心のデボーション 00694

「我すなはちわが手を舒ベエジプトの中に諸の奇跡を行ひてエジプトを撃ん其後かれ汝等を去しむべし」 出エジプト3:20 明治元訳聖書

「わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたああとで、彼はあなたがたを去らせよう」 新改訳聖書

 「不思議」

神はパロのかたくなさに対して「不思議」を行われる。「不思議」とは「難しいこと」を意味する。人の為し得ない難しいことを、神の不思議が成し遂げる。

かたくななパロの心を変える、それこそが最大の「不思議」だった。神は不思議をなさるのにモーセの手にある一本の杖を用いられる。「不思議」は、人の手にある何の変哲もないものによってなされる。

(†心のデボーション00694)

† 心のデボーション 00695

「我らが前に命ぜしことく力めて安靜にし、己の業をなし、手づから働け」 Ⅰテサロニケ4:11 大正文語訳聖書

「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい」 口語訳聖書

 「安静(しずか)ならんことを務め」

明治元訳聖書は「安静(しずか)ならんことを務め己の事を行い手づから工をなし」と訳す。

「己のことを行う」ことができるのは、「安静(しずか)ならんことを愛する人」である。

(†心のデボーション00695)

† 心のデボーション 00696

「それ監督は神の家司なれば、責むべき所なく、放縱ならず、輕々しく怒らず、酒を嗜まず、人を打たず、恥づべき利を取らず」 テトス1:8 大正文語訳聖書

「かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり」 新改訳聖書

 「自制」

感情が乱れると冷静でいられなくなり、自制心を失う。しかし、感情を抑えた世界は不毛で、そこに自制心が働くとも考えられない。感情は抑え込むのではなく、適切に表現することだ。自分が抱えている感情に耳を傾けると、心の声がわかる。自制とは鉄の意志で自分をコントロールすることではなく、素直な心で全体のバランスをとることである。それが、「御霊の実」の最後に「自制」が置かれる理由かもしれない。(ガラテヤ5:23)

(†心のデボーション00696)

† 心のデボーション 00697

「ヱホバ言たまひけるは我まことにエジプトにをるわが民の苦患を觀また彼等がその驅使者の故をもて號ぶところの聲を聞り我かれらの憂苦を知るなり」 出エジプト3:7 明治元訳聖書

「主は仰せになった。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、酷使する者の故の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」 フランシスコ会訳聖書

 「彼らの痛みを知っている」

神は民の苦しみを「確かに見」、彼らの叫びをその耳で「聞いた」、その上で「わたしは彼らの痛みを知っている」と言われる。

見ることもせず、聞くこともしないで、どうして「痛み」が分かるだろうか。

神は私が何者であるかを知られた上で私を愛される。

(†心のデボーション00697)

† 心のデボーション 00698

「汝虚妄の風説を言ふらすべからず」 出エジプト23:1 明治元訳聖書

「偽りのうわさを言いふらしてはならない」 新改訳聖書

 「自分に関する噂」

「聞いたうわさは、胸に納めておけ。安心せよ。胸が張り裂けるものでもあるまい」 ベン=シラ書19:10 フランシスコ会訳聖書

「なんじ何ごとをかを聞きし、それをなんじと共に葬れ。心を強くせよ」 日本聖公会訳

中でも「自分に関する噂」は胸に深く納めて葬りたい。それでも胸が張り裂けるのは、葬ることもせずに胸に深く生かしておくからだ。

(†心のデボーション00698)

† 心のデボーション 00699

「我神の諸の作爲を見しが人は日の下におこなはるるところの事を究むるあたはざるなり 人これを究めんと勞するもこれを究むることを得ず 且又智者ありてこれを知ると思ふもこれを究むることあたはざるなり」 伝道8:17 明治元訳聖書

「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない」 新改訳聖書

 「労苦」

人はなぜ労苦するのだろうか。すべての労苦は「神のみわさ」である。しかし、人はそれを見極めることはできないと伝道者は語る。

労苦の中に「神のみわざ」を見出して生きるには、再びそれを見極めることのできないところに戻すということが必要になる。見極めたという思いが、労苦する喜びを私から奪う。見極められないからこそ、それを手放すことをしないで生きられる。

(†心のデボーション00699)

† 心のデボーション 00700

「海にその限界をたて 水をしてその岸を踰えざらしめ」 箴言8:29 明治元訳聖書

「おのれにとりて難きに過ぐるものを求むな、またおのが力の及ばざるものを探るな」 ベン=シラの知恵3:21 日本聖公会訳

「お前にとって難しすぎることを求めるな。力に余ることを詮索するな」 フランシスコ会訳聖書

 「汝より高きを探るな」

自分の理性を超える事柄を知ろうとしてはいけない。だが、私はいつも自分を超えるところまで求めてはいないと思う。全力を出し切ってもいない。

(†心のデボーション00700)

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