† 心のデボーション 00681
「兄弟よ、さらば如何にすべきか、汝らの集る時はおのおの聖歌あり、教あり、默示あり、異言あり、釋く能力あり、みな徳を建てん爲にすべし」 Ⅰコリント14:26 大正文語訳聖書
「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたは集まるときには、黙示を話したり、威厳を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい」 新改訳聖書
「自分を伝える」
「以心伝心」は日本人のすぐれたコミュニケーションの手段の一つである。しかし「自分が思うほどには、相手は自分のことを知っていない」というのが現実ではないだろうか。機会あるごとに自分を相手にわかりやすく伝える努力も必要になる。自分を最高に表現したいなら、相手に的確に反応すること。その人といると、いつの間にかいい自分になっているという関係を大切にしたい。
(†心のデボーション00681)
† 心のデボーション 00682
「讃むべき哉、われらの主イエス・キリストの父なる神、即ちもろもろの慈悲の父、一切の慰安の神」 Ⅱコリント1:3 大正文語訳聖書
「私たちの父なる神と主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように」 新改訳聖書
「慰め主」
神は「慈愛の父」「慰めの神」である。
「慰」は「熨」の意味であるという。「火のし」はこて状の道具で炭火を入れ熱して衣類のしわを伸ばした。「慰め」は心のしわを温めて伸ばすことである。
ギリシャ語の「慰め パラクれーシス」は「近くに呼ぶ」の意味である。聖霊は「パラクれートス 助け主」と呼ばれる。
神は私を近くに呼ばれ、心のひだを暖かくのばしてくださる。
(†心のデボーション00682)
† 心のデボーション 00683
「汝を生る父にきけ 汝の老たる母を軽んずる勿れ」 箴言23:22 明治元訳聖書
「お前を生んだ父の言葉をよく聞け。お前の母が年老いても、さげすむな」 フランシスコ会訳聖書
「年老いた母親」
年老いた母親をさげすむことだけはしたくない。そこで、母親を愛さなければと思うが、相変わらずいい子を演じる自分が嫌になりもする。実は、母親にも不満があるのにいい母親を演じているところがあって、それが自分と重なっているのではないだろうか。そんな母親をさげすむことで、生きにくい自分を何とか保っている。母親へのこだわりをあきらめ、自分で自分の問題を見つけることができれば、それが母親への愛になるのではないか。
(†心のデボーション00683)
† 心のデボーション 00684
「人を喜ばする者の如く、ただ目の前の事のみを勤めず、キリストの僕のごとく心より神の御旨をおこなひ」 エペソ6:6 大正文語訳聖書
「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い」 新改訳聖書
「報いを求めず」
私が報いを求めるのは、神の御旨によって行為していないからである。私が神に従ってその行為をするとき、私はそれに完全に満足し、報われる必要を全く感じない。
貧しくある者の幸いよ!
(†心のデボーション00684)
† 心のデボーション 00685
「ヱホバよわれ知る人の途は自己によらず且歩行む人は自らその歩履を定むること能はざるなり」 エレミヤ10:23 明治元訳聖書
「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのではなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」 新改訳聖書
「わたしの道」
わたしの道は私によるものではない。それを歩み、歩みを確かにするのも、私によるのではない。それは「私」が退くと、自ずとしてわたしと共にある。私の楽しみと喜びはそこにある。神の備えし道である。
(†心のデボーション00685)
† 心のデボーション 00686
「ヱホバは彼がわづらひの床にあるをたすけ給はん なんぢかれが病るときその衾裯をしきかへたまはん」 詩篇41:3 明治元訳聖書
「主は病の床にある彼を力づけてくださる。病に伏す彼を癒してください」 詩篇41:4 フランシスコ会訳聖書
「無力な者」
重い病人に付き添う人は、病気への気遣いに自分の心も重く沈む。それに加えて、自分には何もしてあげられないという無力感にも責められる。しかし、病の床で彼を支えてくださるのは主であると信じながらそばにいてくれる人がいるからこそ、病人は孤独な自分から救われる。看護する人は、何もできないのではなく、無力な自分に耐えることによって、病人と一緒に「そこに在る」ことができる。
(†心のデボーション00686)
† 心のデボーション 00687
「非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず」 Ⅰコリント13:5 大正文語訳聖書
「見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない」 フランシスコ会訳聖書
「愛の不安」
いつも誰かに愛されていないと不安な人もいる。誰かに認められ、保護されていたいのだ。こういう人はどれほど愛されても、満足することがない。小さなことで傷つき、拒否されたと相手を恨む。そして、愛という名のもとに、相手に無条件の奉仕を要求する。拒絶されたから傷つくのではなく、傷ついた心が自分は拒絶されていると思わせている。愛の不安を解消するには、求めるだけでなく、与えることができなければならない。愛は自分の利益を求めない行為である。
(†心のデボーション00687)
† 心のデボーション 00688
「遺命(いめい)をなせ」 Ⅱ列王20:1 明治元訳聖書
「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」 新改訳聖書
「遺命(いめい)をなせ」
ヒゼキヤが死の病に倒れたとき、預言者イザヤは「汝家の人に遺命(いめい)をなせ。汝は死なん。生くることを得じ」と神の言葉を告げた(Ⅱ列王20:1)。「遺命」は遺言のことである。イザヤの言葉にヒゼキヤは顔を壁に向けて泣いた。神はヒゼキヤの涙を御覧になり、彼に十五年のいのちを与えた。
ヒゼキヤはこの日から、確実におとずれる十五年後の死に向けて生きることになった。それはいのちの新たな緊張の始まりだった。
しかし、ヒゼキヤはこの緊張を長く保つことはできなかった。バビロンの王メロダク・バラダンの使者に宝物庫のすべて、武器庫、倉庫にある一切のものを彼らに見せてしまうという失敗を犯す。失敗は決定的なものでこれによりイスラエルのバビロン捕囚が決定する。
ヒゼキヤに告げられたのは「王宮に先祖が蓄えたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」「ヒゼキヤの息子の中にはバビロンの宮殿につれて行かれ宦官にされる者もある」という厳しいものだった。
ヒゼキヤは自分の在世中は平和と安定が続くと思い、「主の言葉はありがたいものです」とイザヤに告げる。(Ⅱ列王20:19)「ヒゼキヤの十五年」とは何であったのだろうか?
(†心のデボーション00688 マタイ1:9)
† 心のデボーション 00689
「われ迫りくるしめり ヱホバよ我をあはれみたまへ わが目はうれひによりておとろふ 霊魂も身もまた衰へぬ」 詩篇31:9 明治元訳聖書
「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも」 新改訳聖書
「ゴリラの悲しみ」
幼い頃から10年近く世話をしてきたゴリラの飼育員に転勤が決まった。すると、そのオスゴリラは原因不明の食欲不振になり、好物のバナナもヨーグルトも食べず、寝室から出ようとしなくなった。獣医は「心身症だな・・」と言った。オスゴリラは飼育員の転勤に揺れる心をその素振りから知ってしまったのかもしれない。彼らは悲しみを身体で味わっている。
(†心のデボーション00689)
† 心のデボーション 00690
「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」 マタイ6:11 大正文語訳聖書
「我等の日用の糧を今日我等に與へ給へ」 ラゲ訳聖書
「日用の糧」
困ったことは「さらっと通り抜けちまう」のが良い。ちょっとした辛抱で問題のあらかたは解決するものだ。困ったことがおきた時にも「日ごとの糧を今日お与えください」という祈りをわすれないことだ。困ったことも神の下さる「日用の糧」なのだ。食べてしまえば元気にもなれる。
(†心のデボーション00690)
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