心のデボーション068

デボーション1
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† 心のデボーション 00671

「われは眞實のみちをえらび 恒になんぢのもろもろの審判をわが前におけり」 詩篇119:30 明治元訳聖書

「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました」 新改訳聖書

 「真実の道」

「真実の道」に近道はない。道は遠くても神がその正しさを教えてくださるので、私はその選択に迷うことがない。

(†心のデボーション00671)

† 心のデボーション 00672

「彼らの葡萄の樹はソドムの葡萄の樹またゴモラの野より出たる者その葡萄は毒葡萄その球は苦し」 申命32:32 明治元訳聖書

「ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある」 新改訳聖書

 「毒ぶどう」

「ソドム、ゴモラのぶどうの木」には「毒ぶどう」が実るという。「毒ぶどう」はガガイモ科のCalotropis procera

カロトロピス・プロケラ で、美しい花をさかせ、大きな実を結ぶがもぎ取ると中身は「ほこり」のようなものがあるだけで何もなく、触るとかぶれてしまうという。

「悪の実」は見栄えよく、食欲をそそるが、苦い味がする。

(†心のデボーション00672)

† 心のデボーション 00673

「爾此より往て東に赴きヨルダンの前にあるケリテ川に身を匿せ」 Ⅰ列王17:3 明治元訳聖書

「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ」 新共同訳聖書

 「ケリテ川のほとり」

神はエリヤにケリテ川のほとりに三年間身を隠すように命じられた。それは、預言者としての働きがはじまったばかりの大切な時期であった。そこでエリヤは、日に日に枯れていくケリテ川を見た。ついに川の底が現われ、ひび割れていった。

エリヤが見せられたのは、刻々とやせ細り、枯れていく人々のいのちだった。エリヤはたまらず神の名を呼んだ。ケリテ川のほとりに座ることを通してでなければ、人は「私の神、主よ」と祈ることができない。

(†心のデボーション00673)

† 心のデボーション 00674

「ここにイエス弟子たちに言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて、我に從へ』」 マタイ16:24

「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」 口語訳聖書

 「負うべき十字架」

私には「負うべき十字架」がある。ありがたいことではないか。復活のいのちに私を導く負う価値のある十字架である。

(†心のデボーション00674)

† 心のデボーション 00675

「我が子よ汝の父の敎をきけ 汝の母の法を棄ることなかれ」 箴言1:8 明治元訳聖書

「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」 新共同訳聖書

 「母の教え」

ある人は「心の尖った時は、物事をゆっくり考えるのがよかろう」という母の言葉を覚えている。彼はこの言葉が「一生ついてまわるであろう性格の弱点を救い、心の根張りを養ってくれた」と語る。

父の教えは私を嚴しく戒める。しかし、母の教えは尖った心とどう付き合ったらいいか教えてくれる。自分の頑固さにやりきれない思いでいる時にも、「ゆっくる考えるがよかろう」と「静かに放置していてくれる」。

(†心のデボーション00675)

† 心のデボーション 00676

「ほどこし散して反りて増ものあり 與ふべきを吝みてかへりて貧しきにいたる者あり」 箴言11:24明治元訳聖書

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある」口語訳聖書

 「ばらまいても増す人」

ばらまいても増す人は、ばらまく以上のものが入ってくる人だ。惜しんで貧しくなる人は、惜しんで貯めた以上を減らす人だ。両者共に、原因と結果が直接結びつていないようで、実は繋がっている。

(†心のデボーション00676)

† 心のデボーション 00677

「わがたましひは默してただ神をまつ わがすくひは神よりいづるなり」 詩篇62:1 明治元訳聖書

「わたしの魂は、ただ神のうちにあって安らぐ。わたしの救いは、ただ神から来る」 フランシスコ会訳聖書

 「災いのときに急ぐな」

急いで答えを出そうとするな。ゆっくり考え、何が起きたかを見分けよ。答えのない状況は、見つめてさえいれば、そのままにしておいてよい。

「なんじの心を直くして動かさるることなく、災いのときに急ぐな」 ベン=シラ書2:2 日本聖公会訳

(†心のデボーション00677)

† 心のデボーション 00678

「ヤコブよ イスラエルよ 此等のことを心にとめよ 汝はわが僕なり 我なんぢを造れり なんぢわが僕なり イスラエルよ我はなんぢを忘れじ」 イザヤ44:21 明治元訳聖書

「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ」 新改訳聖書

 「忘れないで」

山内修一さんの作詞作曲による「忘れないで」(友よ歌おう 51番)は、1971年(昭和46年)桐生キリスト教会の吉村房次郎牧師がオーストラリアの宣教師N・S・ヤング師と共に「矯正施設福音慰問団」を組織し、全国の少年施設や刑務所を慰問されたとき、松本少年刑務所で慰問に協力した山内修一さんが所内の宿舎で作詞作曲したものである。(吉村房次郎「田舎牧師の覚書き」より)

忘れないで (友よ歌おう 51番)

忘れないで いつもイエスさまは
君のことを みつめている
だからいつも 絶やさないで
胸の中の ほほえみを

だけどいつか 激しい嵐が
君のほほえみ 吹き消すでしょう
だからいつも はなさいで
胸の中の みことばを

忘れないで 悲しみの夜は
希望の朝に かわることを
だからすぐに とりもどして
いつものきみの ほほえみを

「松本少年刑務所のこと。ホールに整列させられた少年たちの瞳はあまりにも無邪気にすんでいた。白シャツ、白の半ズボン、丸坊主で笑いあう少年達の笑顔は美しかった。彼らには未来がある。青春の激しい嵐が彼らの微笑を吹き消したのだ。取り戻してほしい、みことばの上に彼らの笑顔を再び。・・・・・」(山内修一)

(†心のデボーション00678)

† 心のデボーション 00679

「萬國の民を集め之を携へてヨシヤパテの谷にくだりかしこにて我民我ゆづりの產なるイスラエルのために彼らをさばかん 彼らこれを國々に散してその地を分ち取りたればなり」 ヨエル書3:2 明治元訳聖書

「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れて下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ」 新改訳聖書

 「ヨシャファトの谷」

ヨエル書3:2,12に「ヨシャファトの谷」と記されている。「さばきの谷」の意味である。この谷は古くからエルサレムとオリーブ山の間のケデロンの谷であるとされてきたが定かではない。

その日、神はすべての「諸国の民」を集め、イスラエルを散らしたことへの裁きが行われる。(ヨエル3:1~15)

いかなる国にも、いかなる理由があっても、その民を散らすことは許されることではない。

(†心のデボーション00679)

† 心のデボーション 00680

「此もろもろの事の後ヱホバ彼を撃て臓腑に愈ざる疾を生ぜしめたまひければ」 Ⅱ歴代誌21:18 明治元訳聖書

「その後、主は彼の腹を不治の病で打たれた」 新共同訳聖書

 「死に至る病」

アサは足の病、ヨラムは内蔵の破れる不治の病、そしてウジヤには額にライ病が発症した。いずれも神への不信が原因で死に至る病であった。

重篤な病になると、「自分は何の罪を犯したのか」と悩み、神に悔い改めようとする。しかし、結核や癌など「人間がそれに耐えようとして織りなす空想」について研究したスーザン・ソンタグは「病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するに―最も健康に病気になるには―隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法である」と書いている。「病気の捉え方を正し、非神話化するしかない」という。(スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』みすず書房)

病は罪によって引き起こされるのではない。だが、「最も健康に病気になる」には病に背負わせられた隠喩とも正しく向き合わなければならない。

(†心のデボーション00680)

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