心のデボーション066

デボーション1
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† 心のデボーション 00651

「神其造りたる諸の物を視たまひけるに甚だ善りき夕あり朝ありき是六日なり」 創世1:31 明治元訳聖書

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日」 新改訳聖書

 「存在のよし」

神は地のちりで人を形造り、その鼻に息を吹き込まれ、それを「よし」とされた。(創世1:31)

人が真に知るべきことで、かつその価値のあることは、「人間の幸い(存在のよし)」である。人は「よき者」として誕生してくる。

(†心のデボーション00651)

† 心のデボーション 00652

「かれら見るものに對ひていふ見るなかれと 默示をうる者にむかひていふ直きことを示すなかれ 滑かなることをかたれ虛僞をしめせ」 イザヤ30:10 明治元訳聖書

「彼らは先見者に向かって、『見るな』と言い、預言者にむかって『真実を我々に預言するな。滑なな言葉を語り、惑わすことを預言せよ』と言う」 新共同訳聖書

 「滑らかな言葉」

背信の子らは先見者に「見るな」と言い、預言者に「真実を語るな。滑らかな言葉を告げよ」と言う。

「滑らかな言葉」はヘブライ語カーラクで「耳に心地よく、甘い」言葉である。

「耳に心地よく、甘い」滑らかな言葉を語る説教者を信頼するな。彼は「へつらい」を述べているのだ。

(†心のデボーション00652)

† 心のデボーション 00653

「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む」 詩篇23:4 明治元訳聖書

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」 新改訳聖書

 「頓服」

子どもの頃、富山の置き薬に「トンプク」という粉薬があり、歯が痛くても、頭が痛くても「トンプクを飲め」と言われた。それで「トンプク」は痛み止めの薬かと思っていたが、「頓服」は「必要なときに、症状に応じて飲む」の意味の医学用語である。

聖書には「頓服」のような御言葉がある。症状にあわせて随時服用する。

(†心のデボーション00653)

† 心のデボーション 00654

「この故に我らは斯く多くの證人に雲のごとく圍まれたれば、凡ての重荷と纏へる罪とを除け、忍耐をもて我らの前に置かれたる馳場をはしり、」 ヘブル12:1 大正文語訳聖書

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」 新共同訳聖書

 「猪突猛進」

「猪突猛進」は老いた者に言えるかも知れない。

「老いの身」を「猪突」というのは気恥づかしいが、「猛進」ができるということだ。

(†心のデボーション00654)

† 心のデボーション 00655

「請ふ汝神と和らぎて平安を得よ 然らば福祿なんぢに來らん」 ヨブ22:21 明治元訳聖書

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」 新改訳聖書

 「ストレスリダクション」

ストレスをとるには「違和感」を感じるところで解放するとよいという。身体のストレスにも魂のストレスにも効くかもしれない。

(†心のデボーション00655)

† 心のデボーション 00656

「なんぢら眼をあげて高をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ 主は數をしらべてその萬象をひきいだしおのおのの名をよびたまふ 主のいきほひ大なり その力のつよきがゆゑに一も缺ることなし」 イザヤ40:26 明治元訳聖書

「この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる」 新改訳聖書

 「無名の者」

無名に生きることは、何もなさずに(無為に)生きることではない。「私」をそれとして生きることである。残さずして残るところのものである。

神が「私」に呼びかける名がある。「私」という固有の名である。無名の者としてそれを聞け。その名は「根絶やし」にはされない。

(†心のデボーション00656)

† 心のデボーション 00657

「ダビデ、ウリヤの妻たりし女によりてソロモンを生み」 マタイ1:6 大正文語訳聖書

「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」 新共同訳聖書

 「若い時の過ち」

ウリヤの妻「‎בת־שׁוּעַ バテ・シュア」の名は、「娘」と「豊かさ」または「誓い」の組み合わせで「豊かさの女」または「誓いの娘」の意味がある。

その子ソロモンがダビデの後継者になるために、バト・シェバの果たした役割は小さくない。美しさと聡明さを備えた女性であった。

若い時の過ちを長い時間をかけて変容させる人生もある。

(†心のデボーション00657)

† 心のデボーション 00658

「暴虐をもて恃とするなかれ 掠奪ふをもてほこるなかれ 富のましくははる時はこれに心をかくるなかれ」 詩篇62:10 明治元訳聖書

「略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな」 新改訳聖書

 「吝嗇」

「吝嗇家に富はふさわしくない」 シラ書14:3 フランシスコ会訳聖書

なぜなら、「身を削ってまでも蓄える人は他人のために蓄える。他人がこの人の持ち物で贅沢に暮らす」からだという。(シラ書14:4 フランシスコ会訳聖書)

「富」はふさわしく用いてこそ「富」である。だが、それは富を蓄えるよりもはるかに難しい。

(†心のデボーション00658)

† 心のデボーション 00659

「ダビデ、ウリヤの妻たりし女によりてソロモンを生み」 マタイ1:6 大正文語訳聖書

「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」 新共同訳聖書

 「ダビデの後継者」

ダビデの後継者はソロモンだった。

ダビデにはゲシュルの王タルマイの王女マアカとの間に生まれた長男アブシャロムがおり、ソロモンはダビデとバテ・シュアの第二子であった。(Ⅱサムエル13~18章)

家督を継ぐのは長子であったが、「イエスキリストの系図」は長子でない者によっても神の祝福が受け継がれている。出生の順番によって祝福が決まるのではない。

信仰は私以前に始まったものが私にいたり、「神と私」の関わりの上に築かれ、そして後の子孫に及ぶ。

(†心のデボーション00659)

† 心のデボーション 00660

「婦人かのふたりの人を將て之を匿し而して言ふ實にその人々はわが許に來れり然れども我その何處よりか知ざりしが」 ヨシュア2:4 明治元訳聖書

「この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った」 新改訳聖書

 「善意のうそ」

ラハブはイスラエルの斥候をかくまい、追手にうその情報を流す。ヤコブはラハブについて「その行ないによって義と認められた」と語っている。(ヤコブ2:25)

斥候をかくまう行為が義とされたのは明確だが、それでは、善意のうそも義とされるだろうか。

この問題について神がラハブにどのように答えられるかはわからない。ただ、わかることは、イエス・キリストには遊女ラハブの血が流れていることだ。イエスキリストはご自身によって「ラハブの罪」を癒される。

(†心のデボーション00660)

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