† 心のデボーション 00641
「かれらは年老てなほ果をむすび豊かにうるほひ緑の色みちみちて」 詩篇92:14 明治元訳聖書
「白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし」 新共同訳聖書
「慰めに満ちた愛」
老いていく自分をいとおしむ心がないと、老いはつらい。老いは人が身につけたものを一つ一つ剥ぎ取っていく。しかし、そのようにしてありのままの自分を見届けるのが老いであるなら、それは人生で最もみずみずしい時期と言える。そのみずみずしさの中に流れるのは「慰めに満ちた愛」である。(雅歌7:6~9)
いとおしいのは、剥ぎ取られていく過去ではなく、剥ぎ取られることから来るいのちの現われである。
(†心のデボーション00641)
† 心のデボーション 00642
「イスラエルの子孫これを見て此は何ぞやと互に言ふ其はその何たるを知ざればなりモーセかれらに言けるは是はヱホバが汝等の食にあたへたまふパンなり」 出エジプト16:15 明治元訳聖書
「イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう』と互いに言った。彼らはそれが何かしらなかったからである。モーセは彼らに言った。『これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです』」 新改訳聖書
「その日の難のがれ」
「梅干はその日の難のがれ」という。朝一粒の梅干を摂れば、その日の難を逃れられるという言い伝えである。
「その日の難」を逃れることのできる「一粒」があるとすれば、是非にも食べておきたい。どうやら、それはイスラエルのマナのようで、早朝に見つけないと、日も高くなる頃には悪臭を放つ。
イスラエル人は「マナ」を見て「これは何(マナ)だろう?」と言った。「その日の難のがれ」も、見つける者は「これは何だろう?」と言うに違いないものである。
(†心のデボーション00642)
† 心のデボーション 00643
「一人よりして諸種の國人を造りいだし、之を地の全面に住ましめ、時期の限と住居の界とを定め給へり」 使徒17:26 大正文語訳聖書
「神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」 新共同訳聖書
「なんで!」
福島と栃木の県境に住む福島の人が栃木の人に言う。「なんで、自分のとこが東北で、トンネル一つ抜けたお前のとこが関東なのか、納得できるものでない」。
すると、その話を聞いていた群馬の人が言った。「その気持ちわからんでもない。なんで、利根川の橋を渡った向こうが埼玉で、こちらが群馬なんか、俺にも納得できない」。
境に住む人はみな「なんで!」と考える。
(†心のデボーション00643)
† 心のデボーション 00644
「なんぢ生命の道をわれに示したまはん なんぢの前には充足るよろこびあり なんぢの右にはもろもろの快樂とこしへにあり」 詩篇16:11 明治元訳聖書
「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえに、もろもろの楽しみがある」 口語訳聖書
「もろもろの楽しみあり」
あの時、別の道を選んでいたら自分の人生も変わっていたろうと思う時がある。しかし、人が人生で歩むことのできるのは自分の歩いてきた「一本の道」だけである。曲がっているようで直ぐなる道である。
この道には「もろもろの楽しみが、とこしえに」ある。
(†心のデボーション00644)
† 心のデボーション 00645
「大なる人すべて智慧あるに非ず 老たる者すべて道理に明白なるに非ず」 ヨブ32:9 明治元訳聖書
「年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない」 新改訳聖書
「老いる業」
「義務を果たしつつ年老いていけ」 シラ書11:20 フランシスコ会訳聖書
「義務」を、バルバロ訳は「仕事」、日本聖公会訳は「業」と訳す。
年老いて続ける「仕事」とは、人を老いさせてくれる「業」である。老いさえすれば見つけられるというものでもないらしい。
(†心のデボーション00645)
† 心のデボーション 00646
「なんぢら眼をあげて高をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ 主は數をしらべてその萬象をひきいだしおのおのの名をよびたまふ 主のいきほひ大なり その力のつよきがゆゑに一も缺ることなし」 イザヤ40:26 明治元訳聖書
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」 新改訳聖書
「呼び出された者」
神は地のちりで人を形造り、いのちの息を吹き込まれて、その名を「アダム(人間)」と呼ばれた。(創世5:2)
それによって人は「人間」になった。
神はひとり一人を「その名をもって、呼ばれる」。人は「呼び出された者」である。
神は私をどの名で呼ばれるのだろうか?
(†心のデボーション00646)
† 心のデボーション 00647
「さらばなんぢ神と人との前に恩寵と好名とを得べし」 箴言3:4 明治元訳聖書
「神と人との前に、好意と聡明とを得よ」 新改訳聖書
「白眼」
「好名」は「好意」のことである。
竹林の七賢の一人、阮籍(げんせき)は母親が亡くなった時、弔問に来る客に対し、礼法を重視するだけの俗人には白眼で応対し、真に礼法を知る人物には青眼で応対したという。
「神と人」から「青い目」を向けられたいものだ。しかし、問題は私の目の色だ。「青い目」のつもりが「白い目」になっていることもある。
(†心のデボーション00647)
† 心のデボーション 00648
「わがたましひは今なほ是らの事を想ひてわが衷に鬱ぐ」 哀歌3:20 明治元訳聖書
「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」 口語訳聖書
「うちにうなだれるとき」
「うちにうなだれる」は「沈む」である。
あることを考えると「魂がうちに沈み」、生きる力が失われ「幸せ」を忘れてしまう。(哀歌3:17)
しかし、エレミヤは「それゆえ、私は待ち望む」、そして「主のあわれみはつきず、それは朝ごとに新しい」ことを見出す。(哀歌3:22~24)
(†心のデボーション00648)
† 心のデボーション 00649
「汝らの爲に天に蓄へある、朽ちず汚れず萎まざる嗣業を繼がしめ給へり」 Ⅰペテロ1:4 大正文語訳聖書
「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」 口語訳聖書
「天に蓄えあり」
天には私のために「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」が蓄えられている。
「蓄える」のギリシャ語は軍事用語で「番をする、見張る、守る」の意味である。神は天に、「私」というものの「資産」を蓄えておられる。私はしばしば、それをいただく。
(†心のデボーション00649)
† 心のデボーション 00650
「すでにかれをすてたりわが視るところは人に異なり人は外の貌(かたち)を見ヱホバは心をみるなり」 Ⅰサムエル16:7 明治元訳聖書
「容貌や背丈にとらわれるな。わたしはその者を退けた。人間が見るようには見ないのだ。人間は外観を見るが、主は心を見る」 新共同訳聖書
「八番目の子」
「エッサイの子」からイスラエルの王が選ばれるとき、エッサイは七人の子どもらを呼び集め、一人一人に預言者サムエルの前を歩くように命じた。しかし、七人の中から選ばれなかった。神はサムエルに「其容貌(かたち)と身長(みのたけ)を觀るなかれ」と言われる。「人は外の貌を見ヱホバは心を見たもう」からである。
「エッサイの子」には家族から無視されたもう一人の息子がいた。彼は「赤毛」で、兄たちのように見栄えのしない、しかし「目の美しい」子だった。神の選ばれたのはこの「八番目の子」ダビデであった。(Ⅰサムエル16章)「目美しく」は「心が美しい」ことを意味するのであろう。「心の美しい者」は「思いが美しい」人である。
(†心のデボーション00650)
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