† 心のデボーション 00631
「山はうつり岡はうごくとも わが仁慈はなんぢよりうつらず 平安をあたふるわが契約はうごくことなからんと 此はなんぢを憐みたまふヱホバのみことばなり」 イザヤ54:10 明治元訳聖書
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」 新共同訳聖書
「とるに足りない自分」
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの愛はあなたから移らない」と主は言われる。人はどのような時にも自分を否定しない愛のあることを知って、「とるに足りない自分」を生きることができる。
そして、「たとい山々が移り、丘が動いても、私はあなたから移りません」と告げる相手を見つける。
神に愛される人は人生からも愛される。
(†心のデボーション00631)
† 心のデボーション 00632
「ヱツサイの株より一つの芽いで その根より一つの枝はえて實をむすばん」 イザヤ11:1 明治元訳聖書
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」 新改訳聖書
「エッサイの根株」
エッサイはタビデの父である。イザヤ11:1に「エッサイの根株 rc,nEw> yv’yI Yishay {yee-shah’-ee} netser {nay’-tser}」と表現されるように、その根から若枝が出て育つと予言された。「エッサイの子」は「エッサイの根」と同様にメシア待望のシンボルとなった。
しかし、サウル王のダビデへの憎悪から「エッサイの子」は当初蔑みの表現であった。(Ⅰサムエル20:27~31)人々の期待から外れた「根株」から希望が生まれる。
(†心のデボーション00632)
† 心のデボーション 00633
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書
「神のなさることは、すべての時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」 新改訳聖書
「カロカガティア」
古代ギリシャでは「カロカガティア καλοκαγατηια (美にして善)」が人間の理想として考えられた。
「カロカガティア καλοκαγατηια」はギリシャ語の「καλός カろス 善」と「ἀγαθός アガとス 美」からなる言葉である。美にして善なることが人間の求める姿とされた。
美は善を、善は美を伴って、おのずから現れるときにだけ触れることができる。
(†心のデボーション00633)
† 心のデボーション 00634
「是においてアブラム、ハガルの所に入るハガル遂に孕みければ己の孕めるを見て其女主を藐視たり」 創世記16:4 明治元訳聖書
「彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった」 新改訳聖書
「ニオベーの涙」
ローマのメディチ家の館に「迷路の庭園」があり、その中に古代ローマ時代の彫像によるギリシャ神話「ニオベーの物語」が再現されている。
ギリシャ神話「ニオベー」はゼウスが交わった人間の女の最初の人で、7人の息子と7人の娘を産み、「世の中で最も幸せな母親」になるはずだったが、14人の子どもたちを誇り、2人しか子どものないゼウスの妻レートーを蔑んで怒りをかい、アポロンの矢によって7人の息子が射殺される。それでも残った7人の娘のいることを誇ったのでアポロンの矢は7人の娘にも向けられ、14人の子どもたちがすべて殺される。ニオベーは殺された子どもたちの死体の中に座り込み、悲しみのあまり神経も麻痺してしまい、ついにその体は石に変わってしまったが、それなのに涙だけは絶えず流れ落ちたという。
メディチ家の庭に造られたニオベーの彫像群は、成功したメディチ家の子どもたちが高ぶらないようにと置かれたのだろうか。
(メディチ家の「ニオベーの物語」は古代の神殿に飾られた彫像を模して造られた作品である)
(†心のデボーション00634)
† 心のデボーション 00635
「わが言語は眞實に虚僞ならず 知識の完全き者なんぢの前にあり」 ヨブ36:4 明治元訳聖書
「まことにわたしの言葉は偽らない。知識の全き者があなたと共にいる」 口語訳聖書
「知識の全き者」
すべての出来事に意味がある。
しかし、意味は常に深読みしてはいけない。浅く読むことで分かる意味もある。
(†心のデボーション00635)
† 心のデボーション 00636
「故なき詛は雀の翔り燕の飛ぶが如くにきたるものにあらず」 箴言26:2 明治元訳聖書
「いわれのないのろいは、飛びまわるすずめや、飛かけるつばめのようなもので、止まらない」 口語訳聖書
「いわれなきのろい」
「人を呪わば穴二つ」という。「穴」は「墓穴」で人を呪えば、自分も相手の恨みを受け、墓穴が二つ必要になるの意味である。
他人に害を与えれば、必ず自分にかえってくるものである。
「いわれなきのろい」は一旦飛び立つと止まらない。
(†心のデボーション00636)
† 心のデボーション 00637
「かれら互に言ふ『途にて我らと語り、我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』」 ルカ24:32 大正文語訳聖書
「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』」 新共同訳聖書
「根開き(ねあき)」
春になると木の根元から雪が溶ける。雪国では、それを「根開き(ねあき)」とか「雪根開き(ゆきねびらき)」という。樹木は春になると活発に地下水を組み上げて体が温まるのだろうか?
(†心のデボーション00637)
† 心のデボーション 00638
「この世は躓物あるによりて禍害なるかな。躓物は必ず來らん、されど躓物を來らする人は禍害なるかな」 マタイ18:7 大正文語訳聖書
「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである」 口語訳聖書
「つまずき」
イエスは、小さな子どもをつまずかせる者は大きな石臼を首にかけられて湖の深みでおぼれ死んだ方がましだと語られる。常に自分より弱いものを標的にする、その卑劣な行為は許されるものではない。小さな者をつまずかせる人は、それによって自分自身もつまずかせている。つまずきの原因となるものは切除するのが原則である。痛みを伴うが、それしかない。
(†心のデボーション00638)
† 心のデボーション 00639
「もし神の光のうちに在すごとく光のうちを歩まば、我ら互に交際を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む」 Ⅰヨハネ1:7 大正文語訳聖書
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」 新改訳聖書
「鎖縁」
「腐れ縁」という、切っても切れない「縁」がある。切れないのも道理で、「腐れ縁」は「鎖縁」のことで、切れない鎖でつながり合った「縁」のことだからである。
この鎖が切れたとき、本物の腐れが入るだろう。
(†心のデボーション00639)
† 心のデボーション 00640
「言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。」 Ⅱコリント12:9 大正文語訳聖書
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」 新共同訳聖書
「力は弱さの中で」
パウロはその肉体に「一つのとげ」が与えられた。それは苦しみを伴うものだった。それで、繰り返し、それを取ってくださいと祈る。しかし、祈りの後で、パウロは自分の苦しみと向き合ったようだ。そして、「とげ」はキリストの力が自分を「おおう」ためであると知る。「おおう」は「宿る」という意味である。苦しみは、キリストの力が「肉体に宿る」ために神から与えられた恵みである。
神「我がとげ」に宿り給う。
(†心のデボーション00640)
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