† 心のデボーション 00611
「我を失ふものは自己の生命を害ふ」 箴言8:36 明治元訳聖書
「わたしを見失う者は自分自身をそこない」 新改訳聖書
「生きた記憶」
パソコンが突然ダウンすると、復旧までに空白が生まれる。機械に記憶させたものは一瞬にして失われてしまう恐怖を味わう。
問題は外の記憶装置ではなく、その都度更新していく神の創られる生きた記憶である。
過去の情報を失うことはあっても、未来を創造する言葉を失ってはならない。
情報の流れを中断すると内なる記憶が働き始める。
(†心のデボーション00611)
† 心のデボーション 00612
「イエス言ひたまふ『聖書に、 「造家者らの棄てたる石は、 これぞ隅の首石となれる、 これ主によりて成れるにて、 我らの目には奇しきなり」 とあるを汝ら未だ讀まぬか』」 マタイ21:42 大正文語訳聖書
「イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」 新共同訳聖書
「隅の親石」
2016年4月14日、熊本地震で熊本城の城壁が崩れた。その後の余震で城の屋根瓦は落ち城壁の崩れは拡大した。崩れた城壁を修復するには、すべての石を計測し、元の位置に戻さなければならない。
安土桃山時代から続く城の石工「穴太衆(あなふしゅう)」の頭によれば、熊本城の城壁修復は大変難しいが、「かどの親石がわかれば作業はすすむ」という。
たとえ信仰の城壁が崩れることがあっても、「隅の親石」であるイエスによって崩れは再建されるのである。
(†心のデボーション00612)
† 心のデボーション 00613
「智慧は第一なるものなり 智慧をえよ 凡て汝の得たる物をもて聰明をえよ」 箴言4:7 明治元訳聖書
「知恵の初めとして、知恵を獲得せよ。これまでに得たもののすべてに代えても、分別を獲得せよ」 新共同訳聖書
「知恵の初めに、知恵を得よ。あなたの全財産をかけて、悟りを得よ」新改訳聖書
「お前の最初の財産として知恵を得よ。そうだ、お前の得たすべてのものをかけて悟りを得よ」 フランシスコ会訳聖書
「人生の最初の財産」
「智慧」は「人生の最初の財産」であり、「知恵の初め」であり、「第一のもの」である。
人生があなたに与えたもののすべて用い尽くて「智慧」を求めるべきである。「智慧」は新しいいのちをもたらすので、人生で「得たもののすべて」に代えても惜しくはない。
「智慧」とはわたしを「私」に導くもののことである。
(†心のデボーション00613)
† 心のデボーション 00614
「然れど哀なる者を慰むる神は、テトスの來るによりて我らを慰め給へり」 Ⅱコリント7:6 大正文語訳聖書
「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」 新共同訳聖書
「テトスの到着」
上司に小さなミスを指摘されて、夜も眠れないほどに落ち込んでしまう。同僚の前で怒鳴られた自分がみじめで、心はズタズタに引き裂かれてしまう。そういう時は、ナルシシズムを働かせてみる。自分のよい所を見て、みじめな自分を立て直す。多少自分に甘い点数をつけることになっても、二度と怒鳴られまいと萎縮するよりもよい。
神はときどき私に「テトス」を遣わされる。
(†心のデボーション00614)
† 心のデボーション 00615
「アラム、アミナダブを生み、アミナダブ、ナアソンを生み、ナアソン、サルモンを生み」 マタイ1:4 大正文語訳聖書
「途絶えることなき家系」
アミナダムとナアソンの時代に、イスラエルはモーセに導かれて出エジプトをする。「イエスの系図」にモーセの名はない。「救い主の家系」がエジプトでの苦難の中にも途絶えることなく継続することは、モーセの存在以上に注目すべき事柄である。
(†心のデボーション00615)
† 心のデボーション 00616
「預言者は風となり言はかれらの衷にあらず斯彼らになるべしと」 エレミヤ5:13 明治元訳聖書
「預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる」 新改訳聖書
「偽預言者のわざわい」
偽預言者は「わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも見ることはない」と告げる。(エレミヤ5:12)
彼らの言葉は荒野に吹く虚しい「風」であり、彼らのうちに神の言葉はない。しかしその予言は安心を求める人々を慰める。それが偽預言者のもたらす「わざわい」である。
(†心のデボーション00616)
† 心のデボーション 00617
「されば目を覺しをれ、汝らは其の日その時を知らざるなり」 マタイ25:13 大正文語訳聖書
「だから、目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからである」 フランシスコ会訳聖書
「目を覚まして」
「朝には、汝、夕まで待ち得ない者と考えよ。夕来たらば、複朝ありと敢えて期待すな。で、常に準備し居よ、そして死が不意に来らぬやう、汝生くるも油断すな」(トマス・アケンピス「基督のなねび」)
昨日は今にあり、明日も今にある。
(†心のデボーション00617)
† 心のデボーション 00618
「このとき天國は、燈火を執りて新郎を迎へに出づる、十人の處女に比ふべし」 マタイ25:1 大正文語訳聖書
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」 新共同訳聖書
「主に希望せよ」
信仰は常に「喜びの時」を待ち望む「十人の乙女」のようである。その時への期待に心は躍る。
「主に寄り頼め。主はお前を助けてくださるだろう。お前の道をまっすぐにし、主に希望せよ」 シラ書2:6 フランシスコ会訳聖書
(†心のデボーション00618)
† 心のデボーション 00619
「愚なる者はただちに怒をあらはし 智きものは恥をつつむ」 箴言12:16 明治元訳聖書
「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている」 新改訳聖書
「老いて知る怒り」
老いたる者よ、怒るな。つまらぬことで怒らぬために、主を畏れることを学べ。
だが、怒りを恥じるな。老いてこそ知る怒りがある。
「主を畏れることは罪を追い払い、これがあるところでは、あらゆる怒りを追い払う。」 シラ書1:22 フランシスコ会訳聖書
(†心のデボーション00619)
† 心のデボーション 00620
「わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり』」 マタイ28:20 大正文語訳聖書
「わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」 フランシスコ会訳聖書
「最後の一日」
最後の一日に、何をしても許されるとしたら、その24時間をどう過ごすだろうか。やり残したことを心おきなくやりたいという考えもある。ある人は「普通のことを普通にしたい。それが本当の私らしいことだから」と言う。また、ある人は「その日には、庭に一本の林檎の木を植える」と言った。
最後の一日であれ、今日の一日であれ、同じかもしれない。
(†心のデボーション00620)
コメント