心のデボーション061

デボーション1
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† 心のデボーション 00601

「名は美膏(よきあぶら)に愈(まさ)り 死ぬる日は生るる日に愈(まさ)る」 伝道7:1 明治元訳聖書

「名声は香油にまざる。死ぬ日は生まれる日にまさる」 新共同訳聖書

 「花を敷き詰めた床」

イラクのザクロス山脈で発見されたネアンデルタール人は、花を敷き詰めた床に埋葬されていた。死者を美しく弔うのは、ネアンデルタール人のいのちへの優しさである。

聖書は「終りの日は初めの日より新しい」と語る。(黙示21:1~5)

2015年2月1日 後藤健二氏は殺害された。我らは「終りの日は初めの日より新しい」と信じ、その遺体を花を敷き詰めた床に埋葬したい。

(†心のデボーション00601)

† 心のデボーション 00602

「われわが眼前にいやしき事をおかず われ叛くものの業をにくむ そのわざは我につかじ」 詩篇101:3 明治元訳聖書

「卑しいことを目の前に置かず、背く者の行いを憎み、まつわりつくことを許さず」 新共同訳聖書

 「揚げ足を」

「揚げ足をとる」の「揚げ足」は相撲や柔道で、相手が技を仕掛けてあげる足をとって投げる技をいう。そこから相手の失敗や欠点につけこむやり方を意味するようになった。

相手のいきおいを利用した技であるが、気持ちの良いものではない。

(†心のデボーション00602)

† 心のデボーション 00603

「われ我心に合ふ牧者を汝等にあたへん彼等は知識と明哲をもて汝等を養ふべし」 エレミヤ3:15 明治元訳聖書

「また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう」 新改訳聖書

 「神の心にかなった牧者」

神はその心にかなった牧者を私に与えられる。彼らは「神の心にかなう知識と分別をもって私を育て養う者」である。しかし、その導きは、しばしば、私のこころにかなわない。そこで私は抵抗しながら、「神の心にかなう知識と分別」を知ろうと思う。

(†心のデボーション00603)

† 心のデボーション 00604

「ユダ、タマルによりてパレスとザラとを生み、パレス、エスロンを生み、エスロン、アラムを生み」 マタイ1:3 大正文語訳聖書

「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが
生まれ」 新改訳聖書

 「私という織物」

人間の歴史は「祝福」を縦糸に、「災い」を横糸にして織られていく。「私」という織物もまた同じである。どの織物も他とは違った模様をその時々に織りなす。今、自分がどのような存在の模様を織り、その「私」は世界のどこに位置づけられるのかを知っておきたい。

だが、ときに「私」という織物がどのようなものか、その「模様」が見えないことがある。そのようなときは、織物を裏から見ているのかもしれない。織物をかえしてみれば、そこに見事な「模様」が織られていることがある。しかし、意味不明の模様の裏をかえしさえすれば必ず鮮やかな模様が現われるというものでもない。見たこともない見事な模様が現われるのは、意図的というよりも無意識になされたことからであることが多い。ある日、突如にしてそれは見えるのだ。ということは、それまで見えていた見事な模様が突如消え、意味不明の模様に変わることもあるということである。人生は多様である。

(†心のデボーション00604)

† 心のデボーション 00605

「彼らに言ひ給ふ『なんぢら信仰うすき故なり。まことに汝らに告ぐ、もし芥種一粒ほどの信仰あらば、この山に「此處より彼處に移れ」と言ふとも移らん、かくて汝ら能はぬこと無かるべし』」 マタイ17:20 大正文語訳聖書

「イエスは仰せになった、『信仰が薄いからである。あなた方によく言っておく。もし、あなた方に一粒の芥子種ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここからあそこへ移れ』と言えば、山は移る。あなた方にできないことは何もない』」 フランシスコ会訳聖書

 「山を動かす信仰」

目の前の障害物がすべて取り除かれないと一歩も前進できないと思い込む時がある。そこで、山に向かって「動け」と命じてみる。しかし、山は動かない。

イエスの言われる「山」は、現実の山ではなく、動かしがたい障害物のことであろう。山を動かすのではなく、自分が山裾をまわるのも「山を動かす信仰」である。祈りの目的は、自分が山を動かせるかどうかではなく、立ちはだかる山を越えるかどうかなのだ。山は善でも悪でもなくそこにある。

(†心のデボーション00605)

† 心のデボーション 00606

「母のその子をなぐさむるごとく我もなんぢらを慰めん なんぢらはヱルサレムにて安慰をうべし」 イザヤ66:13 明治元訳聖書

「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め」 新改訳聖書

 「助け主」

主は私の「助け主」である。(ヘブル13:6) 「助け」というギリシャ語は「走り寄る」を意味する言葉からきている。「慰め」は、主が私の叫びを聞いて駆けつけ走り寄ってくださることである。

(†心のデボーション00606)

† 心のデボーション 00607

「我らの顧みる所は見ゆるものにあらで見えぬものなればなり。見ゆるものは暫時にして、見えぬものは永遠に至るなり」 Ⅱコリント4:18 大正文語訳聖書

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」 新改訳聖書

 「見えぬもの」

モーセはピスガの頂きに登り、約束の地を遠くに見ながら死んだ。(申命33:1~5)

今はまだ見えない、だが、心にはっきり見えていることがある。遂にそれを見ないとしても、「目を注ぎ」たい。

大切なものの多くはそのようである。

(†心のデボーション00607)

† 心のデボーション 00608

「彼等その銀を街にすてん其金はかれらに塵芥のごとくなるべしヱホバの怒の日にはその金銀もかれらを救ふことあたはざるなり是等はその心魂を滿足せしめず其腹を充さず唯彼等をつまづかせて惡におとしいるる者なり」 エゼキエル7:19 明治元訳聖書

「銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず、腹を満たすこともできない」 新共同訳聖書

 「孤独という貧困」

南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏は2016年4月に来日したおりに日本の大学で公演し、「一番大きな貧困は孤独です」と語った。

世界一貧しい大統領と呼ばれるムヒカ氏の語録には「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがることである」とある。(「世界で一番貧しい大統領のスピーチ」より)

「孤独という貧困」は銀や金で満たすことができないばかりか、持てば持つほど強まる。

(†心のデボーション00608)

† 心のデボーション 00609

「彼ボアズは我等の知己(しるひと)なるにあらずや」 ルツ3:2 明治元訳聖書

「あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です」 新共同訳聖書

 「導きの落穂を拾いて歩め」

サルモンはルツの夫となるボアズの父である。「ボアズ」は有力者でありながら高潔な人格者だった。(ルツ記参照)

ルツは「落穂を拾いながら」いつの間にか、知らずしてボアズの畑に入った。ルツを導くのは畑に落ちる「一本の落穂」である。さらにルツとボアズを出会わせるのは、そのことを知ったルツの姑のナオミである。ナオミはルツの話からボアズが「わたしたちの親戚」であることに気づく。ナオミはボアズの父で高潔な人サルモンを思いだし、他に「買い取りの責任」をもつ親戚がいるにもかかわらず、「あのサルモンが育てたボアズならば」と、ルツに選んだのではないか。この選択は間違っていなかった。

「導きの落穂」を拾いて歩め。

(†心のデボーション00609)

† 心のデボーション 00610

「ハンナこたへていひけるは主よ然るにあらず我は氣のわづらふ婦人にして葡萄酒をも濃き酒をものまず惟わが心をヱホバのまへに明せるなり」 Ⅰサムエル1:15 明治元訳聖書

「ハンナは答えて言った。『いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです』 新改訳聖書

 「願いを注ぎ出す」

ハンナは不妊の女だった。夫のエルカナにはもう一人の妻があり、それもハンナの心を痛める原因になっていた。しかし、ハンナは悲しみに引きこもるのではなく、神にその心を注ぎ出す。(新共同訳聖書は「願いを注ぎ出す」)

その現実に対して、自分の全存在を注ぎ出す。

「心を注ぐ」は「神に信頼して、待つ」である。(詩篇62:5~6) 「心を注ぎ出した」後、ハンナの顔は「もはや以前のよう」ではなくなった。神への信頼は顔つきまで変える。

(†心のデボーション00610)

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