心のデボーション060

デボーション1
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† 心のデボーション 00591

「ヱホバよ我にあたする者のいかに蔓延れるや 我にさからひて起りたつもの多し」 詩篇3:1 明治元訳聖書

「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かうものが多くいます」 新改訳聖書

 「仇する者」

詩人は自分を苦しめる者が「自分の周りに蔓延っている」という。

「蔓延る」の「蔓」はつる草の枝や茎などの「つる」である。これがはびこると手におえない。切っても切ってもからみついてくる。

薄めた液を筆で葉に塗るつる草専用の除草剤があるという。人にまとわりつく「仇する者」にだけ効く塗り薬はないものか。

(†心のデボーション00591)

† 心のデボーション 00592

「なんぢ眞實をこころの衷にまでのぞみ わが隠れたるところに智慧をしらしめ給はん」 詩篇51:6 明治元訳聖書

「ああ、あなたは心の内にの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください」 新改訳聖書

 「影」

ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』の表紙にエンデの父親エトガル・エンデの絵が使われている。合わせ鏡で見るような男の後姿が描かれたもので、男の数が10人であるのに対して、床の影は12人分あることに気づいた。これには何か意味があるのだろうか?

「影によってしかわからない目に見えない存在者」が描かれているのだろうか?

(†心のデボーション00592)

† 心のデボーション 00593

「女こたへて言ふ『然り、主よ、食卓の下の小狗も子供の食屑を食ふなり』」 マルコ7:28 大正文語訳聖書

「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。』」 新共同訳聖書

 「愛を受け取る器」

イエスはこの女性を「子犬」にたとえられた。そこで彼女は「子犬は何の役にも立ちません。羊も追わないし、留守番もできません。でも、子犬は可愛いものです。その可愛さ故に愛されます。愛を受け取る、ただそのために子犬は存在します。あなたは私を子犬と呼ばれるのですか。それならば、私はただ愛を受け取る器としていましょう。食卓の下では子犬は子どもたちのパン屑をいただくことができるのではないでしょうか」と答えたのである。

(†心のデボーション00593)

† 心のデボーション 00594

「わがこころは草のごとく撃れてしほれたり われ糧をくらふを忘れしによる」 詩篇102:5 明治元訳聖書

「わたしの心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました」 新改訳聖書

 「ブロークンハート(傷心)症候群」

熊本地震の被災地で「たこつぼ心筋症」の発症が心配されている。人は恐怖や悲しみなどの強いストレスを受けると、心臓の一部が収縮しなくなり、左心室がたこつぼのようにふくらんで見えることから、この名がある。

英語では「Broken Heart Syndrome ブロークンハート(傷心)症候群」と呼ばれる。

親しい人の死や激しい怒りや強い恐怖によるストレスが胸の痛みや呼吸困難といった心臓発作などの症状を引き起こす。

悲しみを我慢するのではなく、分かち合える人がいて欲しい。

(†心のデボーション00594)

† 心のデボーション 00595

「さらば自ら立てりと思ふ者は倒れぬやうに心せよ」 Ⅰコリント10:12 大正文語訳聖書

「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」 新改訳聖書

 「自ら立てりと思う者」

「自分の力で立っている」という過信からも人は倒れる。弱さを知って神に信頼する者が試練によく耐える。

「私が弱いときにこそ、私は強いからです」 Ⅱコリント12:10 新改訳聖書

(†心のデボーション00595)

† 心のデボーション 00596

「その我上にひるがへしたる旗は愛なりき」 雅歌2:4 明治元訳聖書

「私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした」 新改訳聖書

 「とことんやれな」

「とことんやれ節」は、明治元(1868)年に官軍が江戸城に進軍する際の行進曲(品川弥二郎作詞・大村益次郎作曲とされる)だった。

宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じやいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ

「トコトン」は元々、舞踊の足拍子で、踊りの所作を最後まで成し遂げる、「とことんまでする」の意味だったのが、明治の軍歌に取り入れられたものらしい。

安心して「トコトン」をやるために「錦の御旗」があるのではない。考え考え「とことん」やりたいのだ。

(†心のデボーション00596)

† 心のデボーション 00597

「言ふ我裸にて母の胎を出たり 又裸にて彼處に歸らん ヱホバ與へヱホバ取たまふなり ヱホバの御名は讚べきかな」 ヨブ1:21 明治元訳聖書

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」 新改訳聖書

 「いのち」

大きな災害で親しい人を失った人が、自分だけが生き残ったことに苦しむことがある。

あなたは「生き残った」のではなく、生かされたのだ。

亡くなった方はいのちを断たれたのではなく、いのちを完成されたのだ。

ともに、「なぜ」を問うことはできない。無理に心の整理をしなくてもいい。

(†心のデボーション00597)

† 心のデボーション 00598

「汝殺すなかれ」 出エジプト20:13 明治元訳聖書

「殺してはならない」 新共同訳聖書

 「殺してよい正義」

「たいていの殺人は正義からなされる」という。その「正義」の多くは、自己中心的で身勝手なものに違いない。それでも「正義」をかざすのは、「殺してもよいのだ」と思えなければ人を殺すことなどとてもでないからであろう。しかし、人間を殺してもよいと告げる「正義」などは存在しないし、存在してはならない。

聖書は「殺してはならない」と語る。それを退ける人は誰であれ、正義を踏みにじるのである。

(†心のデボーション00598)

† 心のデボーション 00599

「その鄰(となり)に諂(へつら)ふ者はかれの脚の前に羅(あみ)を張る」 箴言29:5 明治元訳聖書

「友にへつらう者は、彼の一歩一歩に網を仕掛ける者」 新共同訳聖書

 「諂(へつら)ふ」

「諂(へつら)ふ」という漢字は「言」+「臽」で、言葉で相手を穴に落とすこと。

親しい人にへつらって相手を貶める人は、自身の足元に網をはり、自ら足をとられる。

中国語で「谄上欺下 chǎnshàngqīxià」は「上の者にへつらい、下の者を侮る」である。上に「諂(へつら)ふ」者は下を侮り、自身を侮る。

(†心のデボーション00599)

† 心のデボーション 00600

「汝盗むなかれ」 出エジプト20:5 明治元訳聖書

「盗んではならない」 新改訳聖書

 「空腹の万引き」

2016年5月4日の時事通信によると、イタリア最高裁は、少額の食料を万引きした疑いで逮捕されたホームレスの男性に逆転無罪判決を言い渡した。2011年、スーパーで約4ユーロ(約500円)相当のチーズやソーセージを盗んだとして逮捕された男性に、一審では禁錮6月、罰金100ユーロ(約1万2000円)が言い渡されていた。判決は「食べなければ死ぬ。必要に迫られての行為」と情状を酌量したものになった。
私も「食べなければ死ぬ」なら何でも食べよう。だが、それは「スーパー」でなくてもよい。

(†心のデボーション00600)

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