† 心のデボーション 00581
「愛を追求むる者は人の過失をおほふ 人の事を言ひふるる者は朋友をあひ離れしむ」 箴言17:9 明治元訳聖書
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる」 口語訳聖書
「窮寇は追うなかれ」
孫子の兵法に「窮寇(きゅうこう)は追うなかれ」とある。「窮寇 きゅうこう(窮地に陥った敵)」にさらなる攻撃をしかけて追い詰めるなという。追い詰められた敵は死に物狂いの反撃をしてくるからである。
人を追い詰めすぎてはいけない。神はその高ぶりを裁かれる。
(†心のデボーション00581)
† 心のデボーション 00582
「人はその死る日には權力あること旡し」 伝道8:8 明治元訳聖書
「死の日も支配することはできない」 新改訳聖書
「アイスキュロスの亀」
古代アテナイの三大悲劇詩人の一人アイスキュロスは空を飛ぶヒゲワシの爪から落ちてきた亀に当たって死んだとされる。モンテーニュは、アイスキュロスは「家が潰れて死ぬ」という予言におびえて屋外で暮らしていたが無駄であったという。(モンテーニュ「随想録」)
ヒゲワシは亀を空から落として甲羅を割って食べていたが、アイスキュロスの頭を「岩」と間違えて亀を落としたのかもしれない。
この悲劇詩人は自分を襲った悲劇に気づかずに亡くなった。
(†心のデボーション00582)
† 心のデボーション 00583
「蓋わが民はふたつの惡事をなせり即ち活る水の源なる我をすて自己水溜を掘れりすなはち壞れたる水溜にして水を有たざる者なり」 エレミヤ2:13 明治元訳聖書
「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分のために掘ったのだ」 新改訳聖書
「壊れた水ため」
イスラエルの罪は「活ける水の源」である神を捨て、「水をためることのできない、こわれた水ため」を自分のために掘ったことだった。多くの井戸を掘ったが、底が壊れて水をためることはなかった。
「壊れた水ため」はただの穴だ。「いのちの水」を飲むことはできない。
「水を溜めることのできる水ため」とは、絶えず新しい水の沸き上がる井戸のことである。
(†心のデボーション00583)
† 心のデボーション 00584
「イエス答へ給ふ『わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり』」 ヨハネ5:17 大正文語訳聖書
「そこで、イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』」 口語訳聖書
「我もまた働くなり」
神働き給う、ゆえにイエスも働くなり。神我に働き給う、ゆえに我もまた働くなり。神働き給わずば、我に働きあることなし。
(†心のデボーション00584)
† 心のデボーション 00585
「人の心は尚其疾を忍ぶべし されど心の傷める時は誰かこれに耐んや」 箴言18:14 明治元訳聖書
「人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか」 口語訳聖書
「いたちごっこ」
「いたちごっこ」は江戸時代後期に流行った遊びだという。
二人が相向かいになって「いたちごっこ」「ねずみごっこ」と言いながら、相手の手の甲を交互につねる。両手がふさがると一番下の手を上にもっていき相手をつねるのでキリがない。
自分がやられると相手に同じことをして返す。決着のつかないのが「いたちごっこ」である。自分の痛さは感じるが、相手も同じ痛みを味わっていることがわからないと、どんどんつねる力が強くなる。
(†心のデボーション00585)
† 心のデボーション 00586
「さればたとひ地はかはり山はうみの中央にうつるとも我儕はおそれじ」 詩篇46:2 明治元訳聖書
「それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」 新改訳聖書
「杞憂を笑わず」
「杞憂」の「杞」は「杞の国」のことで、「憂」は「心配事で足が前に進まない」の意味。
昔、杞の国に、天地が崩れ落ちたらどうしようかと心配し、夜も眠れず、食事もできない人がいたという故事にもとづく。(『列子・天瑞』)
だが、現実は常に人間の想像を超えていることを思えば、杞憂を笑うわけにはいかない。
(†心のデボーション00586)
† 心のデボーション 00587
「我は卑賤にをる道を知り、富にをる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり」 ピリピ4:12 大正文語訳聖書
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることことにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」 新改訳聖書
「秘訣」
貧しさと豊かさとでは、豊かさの方が生きるのに難しいのではないだろうか。成功を夢に見て努力した人が、目標を達成した途端に、つまらない「ただの人」になってしまうこともある。目標を追求して生きることは知っていても、それを達成した時の生き方を知らない。人生のプロセスだけでなく、着地点も視野に入れておくことが必要になる。貧しさであれ豊かさであれ、その中での自分を確かに生きるというのはすごいことである。
(†心のデボーション00587)
† 心のデボーション 00588
「彼らの神ヱホバ當日に彼らを救ひその民を羊のごとくに救ひたまはん彼等は冠冕の玉のごとくになりて其地に輝くべし」 ゼカリヤ9:16 明治元訳聖書
「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い、その民を羊のように養われる。彼らは王冠の宝石のように、主の土地の上で高貴な光を放つ」 新共同訳聖書
「高貴な光」
野村證券中興の祖といわれる奥村綱雄氏は、「ダイヤモンド経営」を唱えた。
「ダイヤモンドは58面にカットした時が最も美しい。会社経営は多彩な個が集まってこそ光を放つ」「個は全あっての個であって、個あっての全ではない」(「ウィキペディア」調べ)
58面の一つに「キズ」があると、クズダイヤになってしまう。
(†心のデボーション00588)
† 心のデボーション 00589
「ヱホバいふ我汝に膏藥を貼り汝の傷を醫さんそは人汝を棄られし者とよび尋る者なきシオンといへばなり」 エレミヤ30:17 明治元訳聖書
「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。主の御告げ。あなたが、捨てられた女、だれも尋ねて来ないシオン、と呼ばれたからだ」 新改訳聖書
「癒されがたい傷」
「ムカつく」「キレる」という言葉には心の幼さが感じられる。もともと心の深いところで傷ついていて、そこにふれられると、一気にキレてしまうのかもしれない。他人の道具にされるような人生を生きていることにムカついているのかもしれない。
自分をもっと主張したらよい。「自分はどうしたい」ということがはっきりしたら、少しくらいムカつくことがあっても気にならなくなる。それを見つけるためなら「ムカつく」ことにも意味はある。何があってもムカつかない人よりはよいのかもしれない。
神は私の「癒されがたい傷」に「膏藥を貼って」くださる。
(†心のデボーション00589)
† 心のデボーション 00590
「人は母の胎より出て來りしごとくにまた裸體にして皈りゆくべし その勞苦によりて得たる者を毫厘も手にとりて携へゆくことを得ざるなり」 伝道5:15 明治元訳聖書
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない」 新共同訳聖書
「人間の格差」
格差が拡がっている。持てる物や金銀のことなら、さして羨むことではない。しかし、それが人間の格差を意味するなら、するのもされるのも不幸である。
人は伝道者のことば通りに、「裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行く」。
母の胎を出たときに内にあったものを持ち帰れるなら、それにまさる幸せはない。
(†心のデボーション00590)
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