† 心のデボーション 00571
「なんぢ眞實をこころの衷にまでのぞみ わが隠れたるところに智慧をしらしめ給はん」 詩篇51:7 明治元訳聖書
「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」 新改訳聖書
「過去の物語を変える」
子どもの頃の性的虐待が心の傷として残り、その後の人生をゆがめることは少なくない。虐待を受けた人の多くは「私が悪かったのだ」と自分を責める。しかし、心の傷は自分を責めることでは解決しない。「心に傷を受けるのは当然だし、その責任はあなたには全くなかった」と告げられることが必要である。「自分は悪くない」と思えてはじめて、心の傷となった経験を過去の物語にする(過去の物語を変える)ことができる。
(†心のデボーション00571)
† 心のデボーション 00572
「温柔(やさし)き舌は生命の樹なり 悖れる舌は霊魂を傷ましむ」 箴言15:4
「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける」 口語訳聖書
「やさしい言葉」
「温柔(やさし)き舌」は「癒しをもたらす舌」(新共同訳聖書)、「慰めの言葉」(フランシスコ会訳聖書)、「おだやかな舌」(新改訳聖書)と訳される。
耳にやさしい言葉がいのちをもたらすのではない。私にいのちを与えるのが「やさしい言葉」である。
「生命の樹」の陰で読む。
(†心のデボーション00572)
† 心のデボーション 00573
「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」マタイ11:28 大正文語訳聖書
「我に來れ、総て勞苦して重荷を負へる者よ、我は汝等を回復せしめん」 ラゲ訳聖書
「静かに待つ」
「疲れ、疲労」を意味するフランス語 fatigue はラテン語 fatigo 「使い果たす」に由来する。
燃え尽き症候群は短期間に喜びと悲しみなどの正反対の感情を繰り返し経験することで心の力を使い果たすことから始まる。
「休む ἀναπαύω アナパウオー」は「静かに待つ」の意味である。
(†心のデボーション00573)
† 心のデボーション 00574
「彼われに來り傍らに立ちて「兄弟サウロよ、見ることを得よ」と言ひたれば、その時、仰ぎて彼を見たり」 使徒22:13 大正文語訳聖書
「わたしのところにきて、そばに立ち、『兄弟サウロよ、見えるようになりなさい』と言った。するとその瞬間に、わたしの目が開いて、彼の姿が見えた」 口語訳聖書
「目を見開く」
ドイツ語で「瞬間」を意味する de Augenblick は目(Auge)を見開き現実を見る(blick)ことを意味する。現実を洞察することから決定的な瞬間がおとずれる。
(†心のデボーション00574)
† 心のデボーション 00575
「汝らは髮を辮み、金をかけ、衣服を裝ふごとき表面のものを飾とせず、 心のうちの隱れたる人、すなはち柔和、恬靜なる靈の朽ちぬ物を飾とすべし、是こそは神の前にて價貴きものなれ」 Ⅰペテロ3:3~4 大正文語訳聖書
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」 新改訳聖書
「会長病」
「会長病」は小此木啓吾さんが名づけた症状である。
社長までのぼりつめた人が、その後会長になった途端に「うつ病」を発症する。心の問題を先送りにしながら出世してきたが、出世が終わると未解決の問題が表面化し、行き詰ってしまう。
出世とともに「心も出世する」必要がある。
その都度の自分と向き合うことができれば次の変化への備えができる。
(†心のデボーション00575)
† 心のデボーション 00576
「その產時手出しかば產婆是首にいづといひて絳(あか)き線(いと)をとりてその手にしばりしが」 創世記38:28 明治元訳聖書
「出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、『これが先に出た』と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ」 新共同訳聖書
「確執」
「ペレツとゼラ」の兄弟間には誕生のときから「確執」があり、やがてそれは民族間の確執に発展していく。ペレツとゼラの誕生物語はアブラハム、イサク、ヤコブの歴史に民族間の確執が生じることを暗示する。ここに同じ民族間に生じる対立の歴史がはじまる。それは21世紀の現代の状況からも決して小さいことではない。
民族間の対立も一個の「人間」から発生する。一個の「人間」からはじまったものは、一個の「人間」、すなわち「私」として解決さなければならない。
(†心のデボーション00576)
† 心のデボーション 00577
「我は植ゑ、アポロは水灌げり、されど育てたるは神なり」 Ⅰコリント3:6 大正文語訳聖書
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」 新共同訳聖書
「独り自ずから熟する」
「我事業は神に由りて成る、我は自ら進んでらっぱを街衢(ちまた)に吹くを須(もち)ゐず、果実が日光を受けて労(つと)めずして独り自ずから熟するごとく、我事業は求めざるに成る、我は唯静かに種を蒔き、これに灌注ぎて以て其熟成を待てば足りる」 (内村鑑三「内村鑑三随筆集」)
神は人それぞれに「自ら成熟し、求めずして成る事業」を与えられる。
(†心のデボーション00577)
† 心のデボーション 00578
「子をその道に從ひて敎へよ 然ばその老たる時も之を離れじ」 箴言22:6 明治元訳聖書
「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」 新改訳聖書
「二重拘束」
子どもに正反対の矛盾したメッセージを同時に与えるのを「二重拘束」という。親が自分の感情で子どもを叱っておきながら、その直後に今度は子どもを抱き寄せたり、顔は笑っているのに子どもが近づこうとすると冷たく突き放すのがそれである。子どもは混乱し、親のメッセージの意味がわからなくなる。こうして育った子どもは、人と自然とかかわって生きるのが難しくなる傾向がある。
子どもにも誠実に自分を見せていくことが大人の務めである。
(†心のデボーション00578)
† 心のデボーション 00579
「赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し」 ルカ7:47 大正文語訳聖書
「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」 新共同訳聖書
「愛多ければ」
「愛多ければ憎しみ至る」という。愛されることが多ければ、一方で人から憎まれるというのだ。
その人は愛を受けとるだけで、愛することを知らないのだろう。受けとった愛の分だけ人を愛するなら、人から憎まれることはあるまい。
(†心のデボーション00579)
† 心のデボーション 00580
「地は定形なく曠空くして黑暗淵の面にあり神の靈水の面を覆たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」 新共同訳聖書
「混沌」
漢字の「元気」は、すべてのものの生成の根源を意味し、混沌とした状態を示す。「今日も元気だ」というのは、その混沌が正常な状態にあることを意味する。
聖書は天地創造に先立って、地には「混沌」があったと告げている。何もかもが整ったところでは、混沌が死んでしまい、したがって新しいものが生まれない。
「お元気ですか」という挨拶は「あなたの混沌は正しく働いていますか」という意味だろうか。
(†心のデボーション00580)
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