† 心のデボーション 00561
「(ダビデの祈祷) ヱホバよなんぢ耳をかたぶけて我にこたへたまへ 我はくるしみかつ乏しければなり」 詩篇86:1 明治元訳聖書
「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています」 新共同訳聖書
「悩む力」
人は悩むのにもたましいの力を必要とする。悩む力のない人は、悩みそのものから逃げるしかない。そうすれば悩みを見ないで済むかもしれないが、心の隙間に無力感の冷たい風が吹き込んでくる。悩む力を育てるには、内にある「たましいの貧しさ」を見つめることだ。そこから「私のたましいを守ってください」という祈りが生まれる。私は身を屈め自分の貧しさのうちに祈る。祈りが「悩む力」を育ててくれる。
(†心のデボーション00561)
† 心のデボーション 00562
「神いひたまひけるは我かならず汝とともにあるべし」 出エジプト3:12 明治元訳聖書
「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる』 新共同訳聖書
「たとえ何が起きても」
神は尻込みするモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われた。(出エ3:4~12)
「必ず」はヘブライ語で「たとえ~でも」の意味がある。たとえどのようなことがあっても、神は私と共にいる(共に起こる)。神は私の経験するすべての出来事の中に起き上がって下さる。
(†心のデボーション00562)
† 心のデボーション 00563
「我らの日用の糧を今日も与え給え」 マタイ6:11 大正文語訳聖書
「今日の糧を今日お与えください」 フランシスコ会訳聖書
「うましもの」
「日記 diary」の語源はラテン語「dicendum(食物や給料の)日々の割り当て」の意味で、その記録が「日記」である。
主からの「日々の諸手当」を記録したい。その「うましもの」に驚く。
(†心のデボーション00563)
† 心のデボーション 00564
「凡て人に臨むところの事は時ある者偶然なる者なり」 伝道9:11 明治元訳聖書
「しかし時と災難はすべての人に臨む」 口語訳聖書
「災難」
災難は「足が早くても」追いつき、「戦いの勇士」にも打ち勝ち、「知恵ある者」を出し抜き、「悟った者」を無視して、すべての人に臨む。(伝道9:11)
災難に耐えるには、災難から逃げないことだ。災難の意味がわかるのはずっと後のことである。
(†心のデボーション00564)
† 心のデボーション 00565
「なんぢの有てる信仰を己みづから神の前に保て。善しとする所につきて自ら咎めなき者は幸福なり」 ロマ14:22 大正文語訳聖書
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です」 新改訳聖書
「自分の信仰」
初代教会に信仰上の理由で野菜しか食べない人と、何でも食べて良いと信じる人が現れて対立したとき、パウロは「疑いをもって食する」のではなく、それぞれが信じるところに従えばよいとしている。(ロマ14章)
聖書が明確にしないことについては、各自が自分の信仰として行い、自分とは違う他者の信仰を尊べばよい。
(†心のデボーション00565)
† 心のデボーション 00566
「その產時手出しかば產婆是首にいづといひて絳(あか)き線(いと)をとりてその手にしばりしが」 創世記38:28 明治元訳聖書
「出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、『これが先に出た』と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ」 新共同訳聖書
「激しく襲う者」
ユダとタマルの間には双子が誕生した。出産のとき、胎内にいた一人の子が手を出したので、助産婦が「これが先に出た」と赤い糸を手に結んだ。しかし、その子は手を引込めると、もう一人が出てきたので、助産婦は「なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして」と、その子を「ペレツ 出し抜き」と名付けた。その後赤い糸を結ばれた子が出て来たので「ゼラ 真っ赤」と名付けた。(創世記38:27~30)
こうして、ユダ部族は「ペレツ族」と「ゼラ族」の二つに分かれることになった。
「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」マタイ11:12 新共同訳聖書
神の国は「激しく襲う者」によって「奪い取られる」。その競争は誕生の時に始まる。
(†心のデボーション00566)
† 心のデボーション 00567
「われは患難とうれへとにあへり その時われヱホバの名をよべり ヱホバよ願くはわが霊魂をすくひたまへと」 詩篇116:3~4 明治元訳聖書
「私は苦しみと悲しみの中にあった。そのとき、私は主の御名を呼び求めた」 新改訳聖書
「編み直し」
編み物は途中で間違いに気づいたら、そこまで解いて編み直さなければならない。悲しみから立ち直るには、悲しみをもたらした出来事まで戻って、そこから「編み直す」必要がある。
しかし、それができないならば、間違いを別の模様にするのもよいかもしれない。
(†心のデボーション00567)
† 心のデボーション 00568
「この教會は彼の體にして、萬の物をもて萬の物に滿し給ふ者の滿つる所なり」 エペソ1:23 大正文語訳聖書
「教会はきりすとおの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」 新共同訳聖書
「教会」
出掛けて行く所が教会ではなく、自分の居る所が教会である。「教会」は自分が確かにそこにいるかを私に教えてくれる。
(†心のデボーション00568)
† 心のデボーション 00569
「これは我が何事をも恥ぢずして、今も常のごとく聊かも臆することなく、生くるにも、死ぬるにも、我が身によりてキリストの崇められ給はんことを切に願ひ、また望むところに適へるなり」 ピリピ1:20 大正文語訳聖書
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」 新共同訳聖書
「切なる願い」
「切なる願い」は「前に首を伸ばして待望する」の意味である。パウロの「切なる願い」は「どういう場合にも、自分の身にキリストのすばらしさが現われること」だった。
「キリストのすばらしさ」は、人が自分を手放した時点から現われる。その意味で、人は死の瞬間に、最も強い光に包まれる。(ピリピ1:21)
人の最も弱いところから、キリストの香りが放たれる。
(†心のデボーション00569)
† 心のデボーション 00570
「さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ」 マタイ6:8 大正文語訳聖書
「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」 新改訳聖書
「欠けた者」
人は自身に「欠けているもの(必要とするもの)」を本当には知らない。知ることを恐れる。しかし、「欠け」を知ることは幸いである。知ることができた瞬間に、それは「欠け」ではなくなっているからだ。そういう「知りかた」をしたい。人は欠け(必要とするところ)があって完全である。
(†心のデボーション00570)
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