† 心のデボーション 00541
「われ安然にして臥またねぶらん ヱホバよわれを獨にて坦然にをらしむるものは汝なり」 詩篇4:8 明治元訳聖書
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」 新改訳聖書
「安らかな心」
海が黒く、荒々しい波が寄せては砕ける岸に立つと、足元がすくむ。だが、神が共に居られると信じられるとき、
私の心はいつも安らかである。安らかな心でいようと思う。
(†心のデボーション00541)
† 心のデボーション 00542
「(京まうでの歌) ヱホバをおそれその道をあゆむものは皆さいはひなり」 詩篇128:1 明治元訳聖書
「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は」 新改訳聖書
「巨人イソワール」
パリのサン=ジャック塔からサン=ジャック通りを経てサンティヤゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅に出発すると、まもなくトンブ・イソワール通り(La rue de la Tombe Issoire)にかかる。
「トンブ・イソワール la Tombe Issoire イソワールの墓」は、昔、イゾレIsore という名の巨人が巡礼者を襲っては殺したので、騎士ギヨーム・ド・オランジュ Guillaume d’ Orange が戦って討伐したが、あまりに体が大きくて動かせなかったので、人々は巨人が倒れた場所に墓を建てた。以来、巡礼者はトンブ・イソワールで見えない巨人イソワールに石を一つ投げてから旅に出たという。
現在もその場所の建物に足を抱えたイソワールの像がある。三階建ての上から二階までかかる巨大な像で、さみしげな目で街道を行く通行人を見つめている。巡礼を妨げることができなくなって寂しいのだろうか。それとも昔のように巡礼に出発する者がいなくなったのを嘆いているのだろうか。
(†心のデボーション00542)
† 心のデボーション 00543
「農夫たねをまかんに何で日々たがへし日々その地をすき その土塊をくだくことのみを爲んや」 イザヤ28:24 明治元訳聖書
「種を蒔くために耕す者は、いつまでも耕し続けるだろうか。いつまでも土を起こし、均し続けるだろか」 フランシスコ会訳聖書
「畑を和らげる」
何も考えず、何もしない時間があってもいい。おいしいものを食べて遊び、ぼんやり遠くを見るだけの旅もある。そこから何かを得ようとなど考えない。無為徒食に徹してみる。
魂は、種を蒔かれる前に深耕するばかりでなく「ならす」必要がある。ヘブライ語で「ならす」は「和らげる」の意味である。和らげられた魂にやがて種は蒔かれ、芽が出る。
(†心のデボーション00543)
† 心のデボーション 00544
「然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」 ロマ5:3~4 大正文語訳聖書
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」 新共同訳聖書
「練達は希望を生む」
「忍耐は練達を、練達は希望を生む」。気力を養うには、何かに耐えることが必要である。ある人は、「寒さとひもじさに耐える」と希望という気力が出てくるという。
(†心のデボーション00544)
† 心のデボーション 00545
「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が聲を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん」 黙示3:20 大正文語訳聖書
「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もまたまたわたしとともに食事をする」 フランシスコ会訳聖書
「わたしは叩く」
フランクルは収容所から解放された後に、「彼が収容所で唯一の心の拠り所にしていたもの……愛する人……がもはや存在しない人は哀れである。彼は数年来心の中でのみ見たあの家の所で、呼び鈴を押し、だが、その人はもはや決して彼のためにドアを開けてくれない……」と記している。(フランクル「夜と霧」より)
戸はもう閉ざされた。それでもイエスは私と一緒にドアを叩いてくれる。
(†心のデボーション00545)
† 心のデボーション 00546
「その後われ吾靈を一切の人に注がん 汝らの男子女子は預言せん 汝らの老たる人は夢を見 汝らの少き人は異象を見ん」 ヨエル2:28 明治元訳聖書
「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」 ヨエル3:1 新共同訳聖書
「老いた者の夢」
若いうちは何かに夢中になれる。年をとると夢中になれるものが少なくなり、生活の見通しばかりが気になると言われるが、どうだろうか?
むしろ、年をとると、終わりのないことが救いになる。大きな夢を見やすくもなる。若い時よりも夢を見ることができるようになったということか。夢も見られない年寄りにはなりたくないものだ。
(†心のデボーション00546)
† 心のデボーション 00547
「あたらしき歌をヱホバにむかひてうたへ 全地よヱホバにむかひて謳ふべし」 詩篇96:1 明治元訳聖書
「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え」 新改訳聖書
「新しい歌」
詩人は人間の始まりと終わりを見ている。「新しい歌」とは「終りの歌」でもある。老いとともに、人は古び、崩れ、多くを失う。しかし、「新しい歌」を歌う者は、厳しい終わりの中にも神を見る。「主の到来」をみて喜び勇む。「新しい歌」を老いた人から教えてもらわなければならない。それは「いのちの歌」なのだ。
(†心のデボーション00547)
† 心のデボーション 00548
「愛には虚僞あらざれ、惡はにくみ、善はしたしみ」 ロマ12:9 大正文語訳聖書
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい」 新改訳聖書
「御言葉に親しむ」
「親しむ」はギリシャ語で「膠で接着する」で、「くっつく」「ひっつく」の意味である。
「御言葉に親しむ」は「御言葉に強力な膠でひっつく」こと。それがないと「善にひっつく」ことはできない。
(†心のデボーション00548)
† 心のデボーション 00549
「彼は筋力と尊貴とを衣とし且のちの日を笑ふ」 箴言31:25 明治元訳聖書
「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ」 新改訳聖書
「微笑みながら」
彼女は亜麻布と紫色の撚糸で美しい着物や帯を織り商人に渡す。そして、あとは「ほほえみながら後の日を待つ」。いくらで着物が売れるのか、もっとましな仕事はないかなどと考えない。ただ、ほほえみながら明日を待つ。
子どもは、そのほほえみの中に神にゆだねる者の静かな祈りを学ぶ。そして、自分の「後の日」が幸せであることを信じる。
「力と気品」を身につけるのは難しいが、「後の日」を「微笑みながら待つ」者にはなりたい。
(†心のデボーション00540)9
† 心のデボーション 00550
「惰者は途に獅あり 衢に獅ありといふ」 箴言26:13 明治元訳聖書
「怠け者は、『道に若い獅子がいる。巷に獅子がいる』と言う」 フランシスコ会訳聖書
「怠け者」
彼は皿に盛られたご馳走を出されても、口に運ぶのを厭うくらいの「怠け者」だが、「道に若い獅子がいる。巷に獅子がいる」と言う。
怠け者は結構まめである。意味のないことには熱中する。
(†心のデボーション00550)
コメント