† 心のデボーション 00531
「さらば、汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや」 マタイ7:11 大正文語訳聖書
「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちに良い物を与えることを知っている。天におられるあなたがたの父が、自分に求める者に、良い物をくださらないことがあるだろうか」 フランシスコ会訳聖書
「よきもの」
人が「よきもの」として求めるものは、必ずしも人を幸いにしない。「よきもの」とは神から来て人の基となるもののことである。
どの人の人生も「よきもの」に欠けてはいない。
(†心のデボーション00531)
† 心のデボーション 00532
「わが時はすべてなんぢの手にあり 」 詩篇31:15 明治元訳聖書
「私の時は、御手の中にあります」 新改訳聖書
「埓(らち)があかない」
物事がうまくいかないことを「埓(らち)があかない」という。
「埓(らち)」は馬場の周囲に設けられる柵のことで、加茂の競べ馬で柵が外され、馬が場内に引き入れられるのを待ちわびて「埓があかない」と言った。
「埓(らち)があかない」からといって、「埓(らち)」を開けようとしてはいけない。「埓(らち)もない」ことになってしまう。
(†心のデボーション00532)
† 心のデボーション 00533
「愚なる者の口はおろかをはく」 箴言15:2 明治元訳聖書
「愚かな者の口は愚かさを吐き出す」 新改訳聖書
「蛙の引越し」
中国に「蛙の引越し」という幼児に聞かせる話がある。
昔、二羽の雁と蛙が湖のそばで暮らしていた。ある日、二羽の雁は他の池に引越しをしようと計画したが空を飛べない蛙をどうするかで戸惑った。すると蛙が二羽の雁に「一本の棒を二羽でくわえて、自分はそれにぶらさがればいい」と提案する。こうして二羽の雁と蛙は空に飛び立った。それを見上げた村人は彼らの知恵を褒めた。すると口で棒を食わえてぶら下がっていた蛙は嬉しくなり「これは自分が考えたんだ!」と叫んだ。そのとたんに蛙は落ちて死んでしまった。(中国幼児故事精選「内蒙民間故事」より)
さて、この話を聞いた別の蛙と二羽の雁は、二度と同じ間違いはしないと心に決めて、同じように空に飛び立った。村人は空を飛ぶ蛙と二羽の雁を見たが、二度目ともなれば、珍しいことでもなく、何も言わなかった。いくら飛んでも誰も見ようともしないので、つい、蛙は「おーい、誰もいないのか!」と叫んでしまった。
教訓 「自慢で失敗するよりも、自慢の相手がいないのはもっとみじめ」
(†心のデボーション00533)
† 心のデボーション 00534
「汝らが遭ひし試煉は人の常ならぬはなし。神は眞實なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために之と共に遁るべき道を備へ給はん」 Ⅰコリント10:13 明治元訳聖書
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」 新共同訳聖書
「逃れる道」
すべての試練には「逃れる道」が備えられている。試練を避ける為にではなく、それに耐える為である。出口のない試練はない。
(†心のデボーション00534)
† 心のデボーション 00535
「種子なほ倉にあるや 葡萄の樹 無花果の樹 石榴の樹 橄欖の樹もいまだ實を結ばざりき 此日よりのちわれ汝らを惠まん」 ハガイ2:19 明治元訳聖書
「倉には、まだ種があるか。ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える」 新共同訳聖書
「信じる人」
ぶどうもいちじくも、まだ、実をつけていない。よく見ると青く茂った葉の陰に、小さなつぼみが見える。つぼみはまだ青く堅い。それでも神は喜んで「今日から後、わたしは祝福しよう」言われる。
どんな状況にあっても、信じる人は祝福の心を持つ。今はまだ青く堅いつぼみだ。地を耕し肥しをくれ、水を汲まなければならない。しかし、祝福する人には実りの喜びが見えている。
あなたの倉にはまだ蒔かれていない種があるか?
(†心のデボーション00535)
† 心のデボーション 00536
「風に阻へられてサルモネの沖を過ぎ、クレテの風下の方をはせ」 使徒27:7 大正文語訳聖書
「風のためにそれ以上進むことができず」 新改訳聖書
「貝寄せの風」
桜貝を拾うにはこつがある。「貝寄せの風」が吹いた翌朝、浜辺を歩くと、ピンクの桜貝が沢山寄せられている。
「貝寄せの風」は陰暦の2月20日頃(陽暦の3月上旬~ 4月頃)に吹く強い西風である。
海から吹き付ける強い風は歩くのも辛いが、その後にピンクの桜貝を集めてくれる。
(†心のデボーション00536)
† 心のデボーション 00537
「聖徒たるに適ふごとく、淫行、もろもろの汚穢、また慳貪を汝らの間にて稱ふる事だに爲な」 エペソ5:3 大正文語訳聖書
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません」 新改訳聖書
「心のむさき事なき」
江戸時代中期の奈良派の装剣金工土屋安親(つちや やすちか 山形県鶴岡市出身、通称「弥五八」、晩年「東雨」と号した)は名工といわれ、美しい作品を残した。
安親がある書の中で「何事も技倆(わざ)を好く致したくば心のむさき事なきやうに是第一なり」と言ったという。(幸田露伴「露伴随筆」 土屋安親 より)
「むさい」は「卑しい、下品な」の意味で、心の卑しい者から生まれる作品はどこか品がない。「心のむさき事」なきを、第一としたい。
(†心のデボーション00537)
† 心のデボーション 00538
「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 明治元訳聖書
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」 新共同訳聖書
「愚痴」
愚痴を聞くのはごめんだが、愚痴をこぼすのを止めるのは難しい。
愚痴は「言ってもどうにもならないこと」である。仏教では「三毒(貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の一」とされる。
偽善者が自分の行為を人が認めてくれないときに口から出る。隠れたるに在す神に来る者に愚痴は引っ込む。
(†心のデボーション00538)
† 心のデボーション 00539
「汝かれらになみだの糧をくらはせ涙を量器にみちみつるほどあたへて飮しめ給へり」 詩篇80:5 明治元訳聖書
「あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました」 新改訳聖書
「涙のパン」
ウミガメは産卵のとき涙を流す。ウミガメは海で餌と一緒に海水を飲み、そのままでは濃い塩水が血中に入るので、目のところにある塩類腺から海水を排出するのだという。
それでも、ウミガメの涙は産卵の産みの苦しみに見える。
人は色々の涙を流す。どの涙も、見る者の心を動かす。彼は「涙のパン」を食べたのだ。
(†心のデボーション00539)
† 心のデボーション 00540
「さらば凡て人に爲られんと思ふことは、人にも亦その如くせよ。これは律法なり、預言者なり」 マタイ7:12 大正文語訳聖書
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」 新改訳聖書
「自分にしてもらいたいこと」
あまり付き合いたくない人から贈り物をされたら、できるだけ早く、それと同額の品を返せばよいという。しかし、そういう人に限って、それと同額の品が、それも出来るだけ早く返ってきたりする。つまり、それは相手もこちらを「あまり付き合いたくない」と思っていることなのかもしれない。
時には何もしないことが、「してもらいたいことを相手にする」ことであるときもある。
(†心のデボーション00540)
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