† 心のデボーション 00521
「石は重く沙は軽からず 然ど愚なる者の怒はこの二よりも重し」 箴言27:3 明治元訳聖書
「石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い」 新改訳聖書
「愚か者の怒り」
「愚か者の怒り」は石よりも砂よりもずっしりと重い。身に抱えているものを軽くすればいいのだが、石よりも砂よりも重いものを抱えて怒っているのだ。
(†心のデボーション00521)
† 心のデボーション 00522
「斯われに言給ひし時靈われにきたりて我を立あがらしむ」 エゼキエル2:2 明治元訳聖書
「その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた」 新共同訳聖書
「生命(いのち)を立直す」
「なぜ汝の決心を躊躇するか。立ちてすぐさまに断行し、そして言え『為すべき時は今である。奮闘するも今である。今こそ生命(いのち)を立直すその時機である』と」 (アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳)
「生命(いのち)を立直す」には、「今がその時機」と思い定め、「すぐさまに断行」するがよい。
(†心のデボーション00522)
† 心のデボーション 00523
「萬の物は彼によりて造らる、天に在るもの、地に在るもの、見ゆるもの、見えぬもの、或は位、あるひは支配、あるひは政治、あるひは權威、みな彼によりて造られ、彼のために造られたればなり」 コロサイ1:16 大正文語訳聖書
「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、全て御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです」 新改訳聖書
「王への尊い」
ダビデはサウル王から生命を狙われながらも王への尊いを忘れたことはなかった。「王」は神が「油注がれた者」だったからである。(Ⅰサムエル26:9~11)
「支配者たちと権威者に服従し」(テトス3:1)と勧められるのも同じ理由による。正しく「尊う」者が権威者の過ちを正すことができる。
(†心のデボーション00523)
† 心のデボーション 00524
「傳道者は務めて佳美き言詞を求めたり その書しるしたる者は正直して眞實の言語なり」 伝道12:10 明治元訳聖書
「伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した」 新改訳聖書
「ヒエロニムスとパウラ」
聖カテリーナ教会の中庭にヒエロニムス像がある。ヒエロニムスは厳しい顔を天に向け、ヘブライ語聖書をラテン語に翻訳している。ヒエロニムスの足元には髑髏が一つ置かれている。
4世紀の聖書学者エウセビウス・ヒエロニムスは、標準ラテン語訳聖書となった“ヴルガタ訳聖書”を作った。
ダマスス1世の死後、ベツレヘムに渡り、ローマ貴族の未亡人パウラが寄贈した修道院の院長になり、死ぬまで、旧約聖書をヘブライ語の原典からラテン語訳する作業を行ない続けた。しかし、ギリシャ語訳聖書をラテン語訳聖書の基礎にすべきだと主張する人々の批判を浴びた。この時、彼を励まし続けたのがパウラだった。ヒエロニムスはパウラが死んだ後も、その頭蓋骨を眺めながら翻訳作業を続けたと言う。
(†心のデボーション00524)
† 心のデボーション 00525
「愛を追求むる者は人の過失をおほふ」 箴言17:9 明治元訳聖書
「愛を求める人は罪を覆う」 新共同訳聖書
「忘れられる権利」
2016年2月、3年以上前に逮捕された男性が「わすれられる権利」を求めて提訴した。
「忘れられる権利 right to be forgotten」は、元々、インターネットでネット上にある個人情報を検索結果から削除してもらうように検索事業者に要請することのできる権利のことである。「削除権」「忘却権」「消去権」とも言われる。
社会から犯罪の記憶を削除してもらう権利はどこまで認められるのだろうか? それによって犯罪を「記憶する権利」はどう裁かれるのだろうか?
(†心のデボーション00525)
† 心のデボーション 00526
「然ながら智慧は何處よりか覓め得ん 明哲の在る所は何處ぞや」 ヨブ28:12 明治元訳聖書
「しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか」 新改訳聖書
「太公望」
呂尚(太公望)は周の渭水のほとりで鈎のない針に餌もつけないで竿を垂れ、大きな鯉を釣り上げたという。私には餌もつけない竿を垂れて遊ぶなど、とても出来そうにない。だが、見たこともないような見事な鯉は餌もつけない竿でしかとれないのかもしれない。
(†心のデボーション00526)
† 心のデボーション 00527
「泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり」 伝道3:4 明治元訳聖書
「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、ほほえむのに時がある」 新改訳聖書
「にもかかわらず笑う」
ドイツ語に Auch wenn ich lache 「にもかかわらず笑う」という表現がある。
たとえ~であっても私は笑う。泣きながら笑い、笑いながら泣く。
(†心のデボーション00527)
† 心のデボーション 00528
「われ一事をヱホバにこへり我これをもとむ われヱホバの美しきを仰ぎその宮をみんがためにわが世にあらん限りはヱホバの家にすまんとこそ願ふなれ」 詩篇27:4 明治元訳聖書
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」 新共同訳聖書
「なすべき一事」
「なすべき一事」をしていれば、幸せがそちらから近づいてくる。では、その「なすべきこと」とは何か。それは自分で決める他ない。「なすべき一事」は、多くの「悩みの日」をもたらしもする。しかし、やがてそれは自分が選んだというよりも、「なすべき一事」に自分が選ばれたのだと思えるようになる。何でもないことの中にも「主の麗しさ」を見る。
(†心のデボーション00528)
† 心のデボーション 00529
「今なんぢ我がなんぢとともに造りたりし河馬を視よ 是は牛のごとく草を食ふ 」 ヨブ40:15 明治元訳聖書
「見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った」 新共同訳聖書
「ベヘモット」
ヨブ記に Behemoth ベヘモット(ビヒモス)と呼ばれる巨獣が出て来る。「大きくて力のあるもの」で「カバ」を指すと思われる。(ヨブ記40:15~24)
地の生き物の中で「第一の獣」(ヨブ40:19)とされる「力強きベヘモット」も神の造られたものである。
神の造られた「力強きベヘモット」を見よ。彼は獣の中の獣、「第一の獣」であるが、造られた己を超えることはない。だが、人は「力強きベヘモット」に及びも届かない弱い存在であるが、高ぶりによって自己をはるかに超えようとする。
(†心のデボーション00529)
† 心のデボーション 00530
「イエス我等のために前驅し、永遠にメルキゼデクの位に等しき大祭司となりて、その處に入り給へり」 へブル6:20 大正文語訳聖書
「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、えいえんのにメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました」 新改訳聖書
「先駆者イエス」
昔、「先駆者」と呼ばれる人がいた。王の車や馬の前を走って、道筋を明らかにし、人々にその到着を知らせた。バプテスマのヨハネはキリストの「先駆者」だった。
イエスはあたかも高貴な人を導くかのように、尻をからげ、私の前を懸命に駆ける。振り返り、振り返りしながら先を行かれる。イエスに導かれて、私は道なき荒野を行く。
(†心のデボーション00530)
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