心のデボーション052

デボーション1
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† 心のデボーション 00511

「愛を追求むる者は人の過失をおほふ」 箴言17:9 明治元訳聖書

「愛を求める人は罪を覆う」 新共同訳聖書

 「出物腫物」

「出物腫物ところ変わらず」と言う。「出物腫物時知らず」とも言うそうで、場所も時間もわきまえない困りものだ。しかし、出物腫物に「しつけ」を教えようなどと考えないことだ。

外国では、おならをしたら、そこにいた人はすかさず指で木を「コンコン」とはじく。「自分じゃない」というサインだ。その際、犯人は「ごめん」と一言いうのが礼儀である。

(†心のデボーション00511)

† 心のデボーション 00512

「鐵は鐵をとぐ 斯のごとくその友の面を研なり」 箴言27:17 明治元訳聖聖書

「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」 新共同訳聖書

 「友によって研磨される」

鉄が鉄によって研磨されるように、人は友によって身についたサビを落とされる。友もまたそれによって輝きを取り戻すだろう。

(†心のデボーション00512)

† 心のデボーション 00513

「このゆゑに傲慢は妝飾のごとくその頸をめぐり強暴はころものごとく彼等をおほへり」 詩篇73:6 明治元訳聖書

「それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている」 新共同訳聖書

 「暴虐の着物」

世の中にはいかに善意と誠実を見せようと、全く異なる論理で平然と破壊的行為を実行する人がいる。我々はこのことを認めて生きるべきだろうか?

詩人もそれを見て苦しんだ。そして彼は神の聖所に入り、「暴虐の着物」が彼らの身体から剥ぎ取られるのを見て、「ついに彼らの最後を悟った」(詩篇73:17~20)

(†心のデボーション00513)

† 心のデボーション 00514

「ヱホバよ汝わがたましひを陰府よりあげ我をながらへしめて墓にくだらせたまはざりき」 詩篇30:3 明治元訳聖書

「主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました」 新改訳聖書

 「シオンの娘の門」

憎しみの目でみつめられるのは辛い。憎しみの理由よりも自分が憎まれているという思いが悩みを深くする。

魂は沈み、気づくと「死の門」の前に立っていた。それは黄泉の深い穴だ。私は声をあげ、神の名を呼んだ。

すると、神は私を「シオンの娘の門(喜びの門)」(詩篇9:14)に連れてこられた。

(†心のデボーション00514)

† 心のデボーション 00515

「一生の車輪」 ヤコブ3:6 大正文語訳聖書

「人生の車輪」 新改訳聖書

 「人生の車輪」

ヤコブは人の一生を「人生の車輪」と言う。「人生の車輪」は一輪車かもしれない。止まってはいけない。一瞬でも止まれば倒れてしまう。急がなくてもいいからこぎ続けることだ。

(†心のデボーション00515)

† 心のデボーション 00516

「この故に我らは落膽せず、我らが外なる人は壞るれども、内なる人は日々に新なり」 Ⅱコリント4:16 大正文語訳聖書

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々に新たにされていきます」 新共同訳聖書

 「それを失った自分」

すでに失ったのに、その事実を認めることができない時がある。「それを失った自分」が新しくつくられた「私」である。「私」は日々に新しく生まれている。

(†心のデボーション00516)

† 心のデボーション 00517

「愛する者よ、なんぢら此の一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千年は一日のごとし」 Ⅱペテロ3:8 大正文語訳聖書

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」 新共同訳聖書

 「一日は千年のよう」

屋久杉と呼ばれるのには千年以上の樹齢が必要である。それ以下は「小杉」と呼ばれる。

千年を一日の視線で、一日を千年に生きたい。

(†心のデボーション00517)

† 心のデボーション 00518

「かしこを出るや直ちにわれかれにその葡萄園を與へアコル(艱難)の谷を望の門となしてあたへん彼はわかかりし時のごとくエジプトの國より上りきたりし時のごとくかしこにて歌うたはん」 ホセア2:17 明治元訳聖書

「そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき、エジプトの地がら上ってきた日のように」 新共同訳聖書

 「望みの門」

「アコル(艱難)の谷」には石くれの山がある。その下には聖絶のものを盗んだアカンノの死骸が埋められている。そこはイスラエルの苦難の谷だった。

しかし、「アコル(艱難)の谷」は「望みの門」を呼ばれる。苦難の中から、神は私に語りかけられるからである。だから、私は幾度アコルの谷を通過しても、望みを失わない。「望みの門」はいつも「アコルの谷」に開く。

(†心のデボーション00518)

† 心のデボーション 00519

「我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ」 ガラテヤ1:10 大正文語訳聖書

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」 新共同訳聖書

 「かないたがる」

茶道の指南書「南方録」には「かなうはよし、かないたがるはあし」とある。

客と亭主が「互いに心にかなう」がよしで、「かないたがる」はあしとされる。人に喜ばれようとして、「かなう」を求めるあまりに「かないたがる」のは未熟である。こびる必要などないのに、かないたがる自分がある。

(†心のデボーション00519)

† 心のデボーション 00520

「なんぢら凡ての人を敬ひ、兄弟を愛し、神を畏れ、王を尊べ」 Ⅰペテロ2:17 大正文語訳聖書

「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」 新改訳聖書

 「凡ての人を敬ひ」

相手を変えたいと思ったら、とことん尊敬することだ。欠点や弱点があっても、ひたすら尊敬する。尊敬とは相手にこびることでも、無理に持ち上げることでもない。相手をありのままに知ることである。相手の存在そのものを喜び、敬うことができるなら、彼(彼女)は、これまでとは違った存在になる。尊敬しぬくのでなければ、相手を知ることはできない。

(†心のデボーション00520)

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