† 心のデボーション 00491
「汝の門閂は鐵のごとく銅のごとし汝の能力は汝が日々に需むるところに循はん」 申命33:25 明治元訳聖書
「あなたのかんぬきは鉄と青銅。あなたの力はとこしえに続く」 新共同訳聖書
「日々の求めに従って」
私の日々が私に求める能力はあまりに高く、私の手にあまる。それにくらべて私はあまりに貧しい。しかし、私が貧しい者である限り、神は私の日々が求めるに充分な力をお与え下さる。力はその日、その時のものだ。
(†心のデボーション00491)
† 心のデボーション 00492
「これ預言者イザヤによりて、斯く云はれし人なり、曰く 『荒野に呼はる者の聲す 『主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ』」 マタイ3:3 大正文語訳聖書
「預言者イザヤによって、『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ」と言われたのは、この人のことである』」 フランシスコ会訳聖書
「荒野で呼ぶ声」
一緒に暮らしていても、相手の存在に気づいていないことがある。会話はあっても、相手の存在に語っていない。私は荒野の「自分を呼び醒ます声」に聴くことをしていないのかもしれない。自分を呼ぶ声に応えることをしていないので、人に呼びかけることができないのだ。
お互いの存在に呼びかけ、応えることによって、荒野に「主の道」は敷かれる。
(†心のデボーション00492)
† 心のデボーション 00493
「われら自ら是非を究め われらもろともに善惡を明らかにせん」 ヨブ34:4 明治元訳聖書
「さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で、何が良いことであるかを見分けよう」 新改訳聖書
「かじかみの食い合わせ」
狂言「胸突」で、七兵衛は八兵衛から借金を取り立てられて居留守をつかい裏道に逃げるが道に躓いて捕まってしまう。七兵衛が「嬉し悲し」と挨拶すると、八兵衛は「はじかみの食い合わせだ」と応じる。
「はじかみ」は「生姜」のことで、良いことと悪いことが混じるという意味である。七兵衛は八兵衛に胸をつかれて倒されたのを逆手に八兵衛を追い詰める。七兵衛に起こった「はじかみの食い合わせ」は八兵衛にも起こる。
エリフはヨブに「私たちの間で、何が良いことであるかを見分けよう」と問いかけるが、良いことと悪いことは常に所を入れ替えて起きてくる。
(†心のデボーション00493)
† 心のデボーション 00494
「我等この寶を土の器に有てり、これ優れて大なる能力の我等より出でずして、神より出づることの顯れんためなり」 Ⅱコリント4:7
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」 新共同訳聖書
「鶴の一聲」
幸田露伴の随筆に「鶴の一聲」の話がある。
千利休の長男道安(どうあん)は56年間常に「鶴の一聲」と呼ばれる花入れに花を活け、終に一度も軸物をかけたことがなかったという。(幸田露伴の随筆16)
活けられた花は日々それぞれの美を見せ、「鶴の一聲」はそれを容れる宇宙であっただろう。
私は今日もこの土の器に御言葉を活けよう。
(†心のデボーション00494)
† 心のデボーション 00495 発送
「汝合歓木(ねむのき)をもて幕屋のために竪板を造るべし」 出エジプト26:15 明治元訳聖書
「幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る」 新改訳聖書
「アカシヤ(合歓木 ねむのき)」
アカシヤ(合歓木 ねむのき)は堅く強い木で、耐久力にすぐれている。それで天幕の骨木として用いられた。
アカシヤ Acaciaを意味するヘブライ語「シティーム」は、「平和、親切、救い、許し」という四つのことばの頭文字を集めてできたものである。砂漠の民は、その四つを家族と生活を支える柱と考えた。人々にとって生活とは、その四つを生きることだった。四つのいずれもが神と深くかかわる点で、生活は礼拝である。
(†心のデボーション00495)
† 心のデボーション 00496
「イエス言ひ給ふ『イザヤは汝ら僞善者につきて能く預言せり。 「この民は口唇にて我を敬ふ、 されどその心は我に遠ざかる」』」 マルコ7:6 大正文語訳聖書
「イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ、彼はこう書いていいる。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」』」 新共同訳聖書
「偽善」
ギリシャ語で「偽善者」は「芝居をする人」という意味である。もともと、パーソナリティという言葉はペルソナ「仮面」から来ている。人はその場に応じていろいろな仮面をつけ替えながら生きる。善人という仮面をつけて、いかにも人の良さそうな演技をすることもある。それは「偽善」だが、それなしに生きる人を私は知らない。ただ、役になりきって演技していることも忘れ、仮面が素顔になることが怖い。
(†心のデボーション00496)
† 心のデボーション 00497
「但し第七年にはこれを息ませて耕さずにおくべし而して汝の民の貧き者に食ふことを得せしめよ」 出エジプト23:11 明治元訳聖書
「七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない」 新改訳聖書
「ウロウロ蟻」
アリのコロニーでは働きアリのなかに必ず2~3割の働きもしないでウロウロしているだけのアリがいることが確認されていた。そこで北海道大などの研究チーム(長谷川英祐・北海道大准教授)が勤勉なアリだけのグループと働きアリのなかに働かないウロウロアリの混ざるグループを比較研究したところ、勤勉なアリだけのグループは全員が疲れて動けなくなるとコロニーが滅びてしまうのに対して、働きアリとウロウロアリの混成グループでは働きアリが疲れてくるとそれまでウロウロしていたアリが働き始め、コロニーは長続きすることを確認したという。(毎日新聞2016年 2月16日)
「私」の中でも勤勉な「働きアリ」だけでなく、2~3割の不真面目な「ウロウロアリ」を残したほうが長続きするかもしれない。但し、それには「ウロウロアリ」が、勤勉な「働きアリ」が疲れてきたら代わりに働き始めることができなければいけない。
イエスラエルでは土地は六年間は種をまき、七年目は何も蒔かずに休ませることが定められたのは同じ理由からではないが、共通の効果はある。
(†心のデボーション00497)
† 心のデボーション 00498
「霊魂を掌管て霊魂を留めうる人あらず 人はその死る日には權力あること旡し 此戰爭には釋放たるる者あらず 又罪惡はこれを行ふ者を救ふことを得せざるなり」 伝道8:8 明治元訳聖書
「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戰いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない」 新改訳聖書
「聖霊の働き」
風を感じたかったら、さえぎるもののない原野に立ち、風に身をさらすことだ。風はあらゆる方向から吹き抜けていく。
聖霊の働きを感じるには、神に自分をさらす以外にない。さえぎるものの何もないところに立ち、自分を吹き抜けていくものを探る。そして、魂が動くのを感じたら、その声に聴くこと。あなたは新しい風をとらえたのだ。
(†心のデボーション00498)
† 心のデボーション 00499
「請ふ なんぢら乾葡萄をもてわが力をおぎなへ 林檎をもて我に力をつけよ 我は愛によりて疾わづらふ」 雅歌2:5 明治元訳聖書
「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです」 新改訳聖書
「血の涙」
「さて責むな高きにのぼり君みずや紅(あけ)の涙の永劫(えうごふ)のあと」 (与謝野晶子「みだれ髪」)
「紅(あけ)の涙」は涙の出尽くした後に出る「血の涙」のこと。恋の涙を責めないでとうたう。
(†心のデボーション00499)
† 心のデボーション 00500
「また立ちて祈るとき、人を怨む事あらば免せ、これは天に在す汝らの父の、汝らの過失を免し給はん爲なり」 マルコ11:25 大正文語訳聖書
「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」 新共同訳聖書
「自分を赦す」
言い争いの原因はつまらないことだった。どうでもいいことなのに、許せないと感じ、つい意地になってしまった。相手に問題があるのではなく、自分のうちに未決着の部分があって、相手の些細なことを問題に感じるのかもしれない。自分を赦すことだ。赦しの量が増えれば、些細なことは気にならなくなる。
(†心のデボーション00500)
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