† 心のデボーション 00481
「又キリストの汝らを愛し、我らのために己を馨しき香の献物とし犧牲として、神に献げ給ひし如く、愛の中をあゆめ」 エペソ5:2 大正文語訳聖書
「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物とし、香ばしきかおりをおささげになりました」 新改訳聖書
「香ばしきかおり」
愛は犠牲を払うことだろうか。そう考える人は自分を殺して相手に尽くすかもしれない。しかし、その愛はいつか疲れるのではないか。
人を愛するには自分というものを必要とする。愛は自身の内にあって、確かに生きているものを相手に開いて見せることだからである。
「ありのままのあなたが好き」と告白されたら、その愛を信じてよい。彼は、ありのままの自分も好きな人に違いない。愛はいのちそのものである。
(†心のデボーション00481)
† 心のデボーション 00482
「ヱホバかくいひたまふ智慧ある者はその智慧に誇る勿れ力ある者は其力に誇るなかれ富者はその富に誇ること勿れ 誇る者はこれをもて誇るべし即ち明哲して我を識る事とわがヱホバにして地に仁惠と公道と公義とを行ふ者なるを知る事是なり我これらを悦ぶなりとヱホバいひたまふ」 エレミヤ9:23~24 明治元訳聖書
「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな、力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを」 エレミヤ9:22~23 新共同訳聖書
「神を知ること」
知恵も力も富も誇るに足りない。目覚めて神を知ることは知恵であり、力であり、富である。これは誇ってもよい。ただ、神は知るほどに、自分は神を知っていないことがわかるのである。このことを誇ればよいのか。
(†心のデボーション00482)
† 心のデボーション 00483
「また我をほろびの阱より泥のなかよりとりいだしてわが足を磐のうへにおきわが歩をかたくしたまへり」 詩篇40:2 明治元訳聖書
「わたしを滅びの穴から、泥沼から引き上げて、わたしの足を岩の上に立たせ、わたしの歩みを確かなものとしてくださった」 フランシスコ会訳聖書
「泥沼」
「他人の事に余計な気を惹かれるな。また権貴の事件などに自ら絡まるな」(アケンピス「基督のまねび」)
余計なことだと気づくのはたいてい事の後である。自ら絡まったことなら自ら解けばよい。
(†心のデボーション00483)
† 心のデボーション 00484
「ヱホバいひたまへば算しられぬ蝗と蟊賊きたり かれらの國のすべての田產をはみつくしその地のすべての實を食つくせり」 詩篇105:34~35 明治元訳聖書
「主が命じられると、いなごが来た。若いいなごで、数知れず、それが彼らの国の青物を食い尽くし、彼らの地の果実を食い尽くした」 新改訳聖書
「蚕食」
蚕小屋に入るとサクサクと蚕が桑の葉を食べる音がする。そこから「蚕食(さんしょく)」ということばが生まれた。蚕の食欲はすさまじく、桑の葉をいくつもの足でつかまえて顎で葉を削るように食う。蚕のように凄まじい勢いで他人のものを食い尽くすのをいう。
「蚕食」のサクサクという音が世界から聞こえてくる。
(†心のデボーション00484)
† 心のデボーション 00485
「あるひは車をたのみあるひは馬をたのみとする者あり されどわれらはわが神ヱホバの名をとなへん」 詩篇20:7 明治元訳聖書
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう」 新改訳聖書
「雲梯(うんてい)」
中国の戦国時代に公輸盤(こうゆはん)という人が楚の国のために「雲梯(うんてい)」という攻城用の兵器をつくった。大きな台車に折りたたみの梯子を搭載したもので梯子を伸ばして城壁ごしに兵士を送り込んだ。雲にも届く梯子ということで「雲梯」と呼ばれた。
現代の雲梯には梯子の代わりにミサイルが取り付けられ、雲のはるか上にまで届くようになった。
雲底を誇る者は何よりも神を恐れているのかもしれない。
(†心のデボーション00485)
† 心のデボーション 00486
「なんぢを贖ひなんぢを胎内につくれるヱホバかく言たまふ 我はヱホバなり我よろづのものを創造し ただ我のみ天をのべ みづから地をひらき」 イザヤ44:24 明治元訳聖書
「あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」 新共同訳聖書
「ダメ人間」
両親から過大な期待を寄せられながら「お前はダメな子」と決めつけられると、成長して周囲から期待されると無意識のうちに「ダメ人間」を演じてしまうことがある。「いくら努力してもダメな人間」という枠組みがつくられてしまったのだ。枠の組み換えには、それが本当の自分ではないと気づく必要がある。本当の自分とは、神によって「母の胎内にいる時」形造られ、愛され、存在してきた私のことである。
(†心のデボーション00486)
† 心のデボーション 00487
「高ぶる目と驕る心とは惡人の光にしてただ罪のみ」 箴言21:4 明治元訳聖書
「高慢なまなざし、傲慢な心は、神に逆らう者の灯、罪」 新共同訳聖書
「高慢のまなざし」
「高慢のまなざし」という灯火をかかげて道を行く。灯火は明るく周辺を鮮やかに浮かび上がらせよう。だが、「高慢のまなざし」という灯火が照らし出すのは人の真実の姿ではない。
謙遜とは人のありのままを見る視線である。
(†心のデボーション00487)
† 心のデボーション 00488
「汝等たがひに愛を負ふのほか何をも人に負ふな。人を愛する者は律法を全うするなり」 ロマ13:8 大正文語訳聖書
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」 新改訳聖書
「愛」
パウロは借りがあってはならないが、「愛」は別だという。愛は借りてもいい。しかも、借りたのだから返すべきだとも考えなくてもよい。愛の人は、貸したのだから返してもらいたいとは考えていないからである。借りにも貸しにもならないのが愛だ。与え、受けるの二つしかない。どうしても「返したい」なら、誰かを愛することである。
(†心のデボーション00488)
† 心のデボーション 00489
「なんぢ睡眠を愛すること勿れ 恐くは貧窮にいたらん 汝の眼をひらけ 然らば糧に飽べし」 箴言20:13 明治元訳聖書
「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる」 新改訳聖書
「痛棒」
「痛棒を食らわす」という。「痛棒(つうぼう)」は、座禅に身が入らない修行者の肩を打つための「警策」である。夏は二打、冬は四打するのだという。夏と冬では服装が違うためである。
聖書学校では祈祷会で眠気を押さえるために、自分で腿をつねったりした。
痛棒くらいでは去らないねむけがあるようだ。
(†心のデボーション00489)
† 心のデボーション 00490
「價たかき眞珠一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく賣りて、之を買ふなり」 マタイ13:46 大正文語訳聖書
「高価な真珠を一つ見出すと、商人は自分の持ち物をことごとく売りに行き、それを買った」 フランシスコ会訳聖書
「値高き真珠」
神は真珠を探して世界を旅する真珠商人である。ある日、彼はついに「値高き真珠一つ」を見出し、「自分の持ち物をことごとく売り払って、それを手に入れた。それが「私」である。
「私」のどこに「値高き真珠」の輝きがあるというのだろうか。真珠にはそれがわからない。しかし、外の輝きではなく魂の輝きを知る真珠商人の目は確かである。
(†心のデボーション00490)
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