† 心のデボーション 00461
「我ヱホバを俟望(まちのぞ)む わが霊魂(たましい)はまちのぞむ われはその聖言(みことば)によりて望をいだく」 詩篇130:5 明治元訳聖書
「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」 新共同訳聖書
「巻きつき、からみつく」
「待ち望む」は「巻きつく、からみつく」という意味の言葉である。詩人は「深い淵」、底なしの深みに落ち込んでいる。足がかりのない深い泥の中で、もがけばもがくほど、ずるずると落ち込むのが詩人の現状だった。しかし、底なしの深みにはまりながらも、詩人はからみつくことを止めない。神のみことばにからみつき、巻きつく。底なしの深みから引き上げてくれることばを見つけるまでからみつく。
(†心のデボーション00461)
† 心のデボーション 00462
「汝の民の間に往めぐりて人を謗るべからず汝の鄰人の血をながすべからず我はヱホバなり」 レビ記19:16 明治元訳聖書
「民のうちを行き巡って悪口を言いふわしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である」 口語訳聖書
「青石が物を言う」
その人の居ないところで悪口を言ってはいけない。「青石が物を言う」ということもあるからだ。相手の姿がそこにないからといって無闇に悪口を言っていると、ありふれた石さえものを言うかもしれない。ましてや、「民のうちを行き巡って」悪口を言いふらすなど、どこから「青石」が飛んでくるかわからない。
(†心のデボーション00462)
† 心のデボーション 00463
「汝はその贖ひし民を恩惠をもて導き汝の力をもて彼等を汝の聖き居所に引たまふ」 出エジプト15:13 明治元訳聖書
「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた」 新改訳聖書
「手がかりの岩」
ロッククライマーはとりあえず目の前にある岩をつかんで身体を支える。それは小さなでっぱりであったり、ちょっとした裂け目だったりする。そして、今、目に見えている手がかりを結びつけてルートを探る。そこまで行けば、今はまだ見えていない手がかりが現われるかもしれない。
全体が見えなくても失望しないことだ。目に見える「手がかりの岩」をしっかりつかむこと、それが主の「恵みの導き」であることがある。
クライマーは「とりあえず」ではなく、次の次を考えているのだ。
(†心のデボーション00463)
† 心のデボーション 00464
「汝らは汝らの男子女子僕婢とともに汝らの神ヱホバの前に樂むべしまた汝らの門の内にをるレビ人とも然すべし其は是は汝らの中間に分なく產業なき者なればなり」 申命記12:12 明治元訳聖書
「あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい」 新改訳聖書
「秋のあら」
千葉県の上総地方では「秋のあらと娘の欠点は見えぬ」という。「あら」は水深100~300mの深海の岩礁にすむスズキ科の魚で、冬が旬で、秋には捕れないことから、めったに捕れない「秋のあら」のように「娘の欠点は目に入らない」ことをいうらしい。
最近は釣り師でもめったに捕れない高級魚になっていることから、父親には「娘の欠点」がますます見えにくくなった感もある。
欠点は深いところに隠れると、めったなことでは姿を現さない。無理に釣り上げないくてもいいのかもしれない。
(†心のデボーション00464)
† 心のデボーション 00465
「我笑を論ふ是は狂なり 快樂を論ふ是何の爲ところあらんやと」 伝道2:2 明治元訳聖書
「笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう」 新改訳聖書
「笑い」
「笑いか。ばからしいことだ」と伝道者は言う。しかし、私は笑いが欲しい。あのアブラハムは年老いて息子イサクが与えられると「イサク (笑い)」と名づけたではないか。
しかし、いつまでも続く終わりのない笑いは怖い。すぐに消え、次を待つくらいの笑いがよい。
(†心のデボーション00465)
† 心のデボーション 00466
「人もし汝に惡を爲さずば故なく之と爭ふこと勿れ」 箴言3:30 明治元訳聖書
「理由もなく他人と争うな、あなたに悪事をはたらいていないなら」 新共同訳聖書
「攻撃的な人」
攻撃的な人は怖がられる。ちょっとしたミスを厳しく責めるので、周りの人はびくびくして気を遣う。このような人は自分が攻撃されることに弱く、その弱さを相手に知られるのを恐れているのかもしれない。そこで攻撃される前に、無意識のうちに相手を攻撃する。怖い人だから周りをびくびくさせるのではなく、本人のうちにびくびくした気持ちがあって、それが人を怖がらせるのである。意外と弱い人なのだとわかれば、必要以上に気をつかうことからも解放される。
(†心のデボーション00466)
† 心のデボーション 00467
「牛なければ飼蒭倉むなし牛の力によりて生產る物おほし」 箴言14:4 明治元訳聖書
「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」 新共同訳聖書
「牛のいない飼い葉桶」
牛は力つよく、忍耐強い。疲れを知らず、荒地を耕す。だが私の牛舎に牛の姿が見えない。牛のいない飼い葉桶は綺麗だが、むなしい。牛はどこに行ってしまったのか。
(†心のデボーション00467)
† 心のデボーション 00468
「彼らは口に悦ばしきところの事をなし其心は利にしたがふなり」 エゼキエル33:31 明治元訳聖書
「彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている」 新改訳聖書
「秋の鹿」
「秋の鹿は笛に寄る」という。秋になると雄鹿は鹿笛の音を聞いて山から下りてきて人々に捕らえられる。鹿笛の音を雌鹿の鳴き声と思って寄ってくるのだ。
信じたくはないが、「美しく歌われる恋の歌」を聞いたが、鹿笛だったということもある。似てはいるが身を寄せてはいけない。
(†心のデボーション00468)
† 心のデボーション 00469
「かれらの毒は蛇のどくのごとし かれらは蠱術(まじわざ)をおこなふものの甚(いと)たくみにまじなふその聲をだにきかざる耳ふさぐ聾ひの蝮のごとし」 詩篇58:4,5 明治元訳聖書
「彼らは、蛇の毒のような毒を持ち、その耳をふさぐ耳しいのコブラのようだ。これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない」 新改訳聖書
「耳しいのコブラ」
聖書は人に聴こうとしない人を「耳しいのコブラ」と呼ぶ。忠告も愛のことばも届かず、ただ、身近にいるものを毒のある歯で噛む。自分以外のすべての人に敵意を感じ、わが身を守ろうとするのかもしれない。
だからと言って、そういう人を必要以上に警戒しないことだ。たとえかまれても、その歯は「口の中で折れて」いて、すでに毒はない場合もある。
しかし、コブラはコブラである。耳を塞ぐコブラは「蛇使いの唱える聲」すら聞こうとせず、こちらが接近してもわからず、逃げない。警戒しない。だからつい踏んでしまうのだが、警戒を怠るべきではない。
(†心のデボーション00469)
† 心のデボーション 00470
「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし」 ヨハネ15:13 大正文語訳聖書
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」 新共同聖書
「大きな愛」
「大きな愛」は「大き過ぎる愛」にならぬよう、時に愛を控えることを学ばなければならない。「大きな愛」とは「謙虚な愛」である。
(†心のデボーション00470)
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