† 心のデボーション 00441
「キリストの福音において神の役者たる我らの兄弟テモテを汝らに遣せり。これは汝らを堅うし、また信仰につきて勸め」 Ⅱテサロニケ3:12 大正文語訳聖書
「こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」 新改訳聖書
「静かに仕事をし」
「働かざる者は食うべからず」という言葉が聖書にあるというのは、正確ではない。Ⅱテサロニケ3:10には「人もし働くことを欲せずば、食うべからず」(文語訳)と言われているのである。
働きたくなくて引きこもっているのではなく、むしろ、働かなければという強い思いが逆に身動きをとれなくするときもある。これを、パウロの「働きたくない者」と一緒にして「食うべからず」と叱咤激励するのは間違いである。
「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べる」暮らしに幸せがある。
(†心のデボーション00441)
† 心のデボーション 00442
「ヱホバよなんぢに義者にさいはひし盾のごとく恩惠をもて之をかこみたまはん」 詩篇5:12 明治元訳聖書
「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます」 新改訳聖書
「愛の大盾」
私ははじめ「愛の大盾」に守られて、飛び来る矢は私に届かないと思った。しかし、そうではなかった。矢はことごとく私の胸を射抜き、私は血を流した。だが、その痛みが私に神の痛みを教えてくれた。そして、私は神の愛に囲まれることの意味を悟った。
(†心のデボーション00442)
† 心のデボーション 00443
「惡をもて惡に、謗をもて謗に報ゆることなく、反つて之を祝福せよ。汝らの召されたるは祝福を嗣がん爲なればなり」 Ⅰペテロ3:9 大正文語訳聖書
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」 新共同訳聖書
「祝福を受け継ぐ器」
アブラハムは「祝福の基」とされ(創世記12:3)、私たちは「祝福を受け継ぐ器」として召された。
すべての人に祝福を祈れ。「祝福」はあなたに「受け継がれ」、あなたからどこかに「引き継がれ」ていく。
わたしは「祝福」がどこから来てどこに行くのかを知らない。ただ、受け取り、そして送り出すのだ。
(†心のデボーション00443)
† 心のデボーション 00444
「ヱホバよ朝になんぢわが聲をききたまはん 我あしたになんぢの爲にそなへして俟望むべし」 詩篇5:3 明治元訳聖書
「朝、あなたはわたしの声を聞いてくださいます。朝、わたしは言葉を整え、あなたを待ち望みます」 フランシスコ会訳聖書 詩篇5:4
「薄明かりの中で」
「明るい」の「明」は日+月と書く。「明」は窓を照らす月を意味する。夜明けの明るさのことである。私を目覚めさせてくれのは、そのような薄明かりなのかもしれない。目覚めは一つのいのちの誕生である。
朝毎に、薄明かりの中で神はわたしの声を聞いてくださり、わたしは自分を整え、言葉を整える。
(†心のデボーション00444)
† 心のデボーション 00445
「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書
「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」 詩篇127:3~4 大正文語訳聖書
「アブラハム、イサクを生み」
「もうけた γεννάω ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o }」は「(父が子を)もうける、(母が子を)産む」に用いられる。子どもを産むのは母であるが、父も「産んだ」と表現される。男もまた「子」を産むのであり、「子」は父にとっても、母と同様に自らの肉体から生まれた存在である。
(†心のデボーション00445)
† 心のデボーション 00446
「觀よはらから相睦てともにをるはいかに善いかに樂きかな」 詩篇133:1 明治元訳聖書
「見よ、兄弟が睦まじく住むのは、何と麗しく、快いことか」 フランシスコ会訳聖書
「兄弟が睦まじく住む」
兄弟には、兄という光と闇があり、弟という光と闇がある。それぞれの光と闇は同じではない。兄の光は弟の闇となり、弟の光が兄の闇になることもある。
兄弟と睦まじく住むには、みな自分の光と闇をもち、自分の光が相手の闇を、相手の光が自分の闇を形成することを知らなければならない。
(†心のデボーション00446)
† 心のデボーション 00447
「誠にまことに汝らに告ぐ、なんぢらは泣き悲しみ、世は喜ばん。汝ら憂ふべし、然れどその憂は喜悦とならん」 ヨハネ16:20 大正文語訳聖書
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」 新改訳聖書
「木を植える」
悲しみが喜びに変わるというのは、悲しみそのものが喜びに変わるということだろうか。それとも、悲しみはそのままに、そこに喜びが入って来るのだろうか。
妻子に先立たれた初老の男が、荒れ果てた大地に樹を植えるという物語がある。彼は、それから三十年もの間、ひたすらに樹を植え続ける。悲しみを喜びに変えるには、悲しみという「荒れ果てた大地」を耕し、そこに一本の木を植える作業かもしれない。
(男にとって一本を植えることがすべてであったろう。それが終われば次の「一本の木」があった。その繰り返しで、三十年という年月はさして意味あることではなかったろう)
(†心のデボーション00447)
† 心のデボーション 00448
「わが神ヱホバよ我をかへりみて答をなしたまへ わが目をあきらかにしたまへ 恐らくはわれ死の睡につかん」 詩篇13:3 明治元訳聖書
「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように」 新改訳聖書
「私の目は輝く」
神は私に目を注がれる。自分に向けられた神の視線を感じると、私の目は輝く。死の眠りから目覚めた者よ、お前は何を見るのか?
(†心のデボーション00448)
† 心のデボーション 00449
「ヱホバよ願くはわが仇のゆゑになんぢの義をもて我をみちびき なんぢの途をわが前になほくしたまへ」 詩篇5:8 明治元訳聖書
「主よ。私を待ち伏せしている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」 新改訳聖書
「神の道」
敵が自分を襲おうとして待ち伏せしている。偽りの口あり、はかりごとあり、破滅が待ち伏せしている。(詩篇5:8~10)
危険の隠れる地にも一本の直ぐなる「神の道」がある。その道は細く、行く者も少ない。だが喜びの道である。(詩篇5:11)
(†心のデボーション00449)
† 心のデボーション 00450
「名は美膏(よきあぶら)に愈(まさ)り 死ぬる日は生るる日に愈(まさ)る」 伝道7:1 明治元訳聖書
「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる」 新改訳聖書
「花の床」
イラクのザクロス山脈で発見されたネアンデルタール人は、花を敷き詰めた床に埋葬されていた。死者を美しく弔うのは、ネアンデルタール人のいのちへの優しさが感じられる。
聖書は「終りの日は初めの日より新しい」と語る。(黙示21:1~5) 死の日は誕生の日にまさる。死の日を恐れるのは、今のいのちが不安だからかもしれない。自分のいのちを美しく生きていれば、終わりの日も美しく輝くのではないか。その日を花の床で迎えたいものだ。
(†心のデボーション00450)
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