† 心のデボーション 00431
「イサク、ヤコブを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書
「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」 詩篇127:3~4 大正文語訳聖書
「子どもは主の賜物」
「子を生む」は「γεννάω ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o }」は「生ぜしめる」である。
ここには、自分と似た存在をこの世に「生ぜしめる」ことへの緊張と喜びがある。
ハンナは息子サムエルが乳離れしたとき、主の宮に行き「われ此子のためにいのりしにヱホバわが求めしものをあたへたまへり 此故にわれまたこれをヱホバにささげん其一生のあひだ之をヱホバにささぐ」と祈り、我が子を神にささげている。(Ⅰサムエル1:28)
「これをヱホバにささげん」は I have lent him to the LORD. で、「神にレント(お貸し)します」の意味である。
すべての父と母は、その時が来たら、我が子を神にお返し(レント)しなければならない。その時はかならず来る。
(†心のデボーション00431)
† 心のデボーション 00432
「世の財寶をもちて兄弟の窮乏を見、反つて憐憫の心を閉づる者は、いかで神の愛その衷にあらんや」 Ⅰヨハネ3:17 大正文語訳聖書
「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」 新改訳聖書
「青息」
困ったときに吐くため息を「青息吐く(つく)」という。息には五色あるというが、「青、赤、黄、白、黒」だろうか。そうだとすれば「青」は胆にかかわり、苦い息である。
兄弟が青息吐く声を聞いても、何もできないことがある。あわれみの心を閉ざしたからではない。心を開くとそうなる。
(†心のデボーション00432)
† 心のデボーション 00433
「また我をほろびの阱より泥のなかよりとりいだしてわが足を磐のうへにおきわが歩をかたくしたまへり」 詩篇40:2 明治元訳聖書
「わたしを滅びの穴から、泥沼から引き上げて、わたしの足を岩の上に立たせ、わたしの歩みを確かなものにしてくださった」 フランシスコ会訳聖書
「滅びの穴」
「凶」という字は地面に掘られた落とし穴にはまってもがく様をいう。穴は「孔」で「虚しい、空洞」を意味する。とすれば、「凶」は虚しさの穴に落ち込むことか。
穴はしばしば自分の中にできる。誰が何のために掘るのか。落ちたら、仕方がない。怪我のないことを確かめて、ゆっくり出ることだ。それほど深い穴でもない。
(†心のデボーション00433)
† 心のデボーション 00434
「ヱホバ、ユダとヱルサレムの人々にかくいひ給ふ汝等の新田を耕せ荊棘の中に種くなかれ」 エレミヤ4:3 明治元訳聖書
「まことに、主はユダの人、エルサレムとにこう仰せになる。『自分たちで休閑地を耕せ。茨の中に種を蒔くな』」 フランシスコ会訳聖書
「新田を耕す」
畑を半分耕して、あと半分も耕してやろうというエネルギーは、耕し終わった半分をながめることの中に含まれているとシモーヌ・ヴェーユは語ります。
自分の人生の畑はまだ半分も耕し終わっていませんが、振り返ってみれば鍬でおこした黒々とした土が見えます。今年はどこまで耕せるでしょうか。
(†心のデボーション00434)
† 心のデボーション 00435
「事を隱すは神の榮譽なり 事を窮むるは王の榮譽なり」 箴言25:2 明治元訳聖書
「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」 新改訳聖書
「人に知られないこと」
人に知られなければわからないことがたくさんあります。その中には内にとどめるがよいこともあるのです。神はすべてを人の目にさらされるお方ではありません。
人に知られなければよいのではなく、神と私の間に置くべき事柄なのです。
(†心のデボーション00435)
† 心のデボーション 00436
「聽くところの耳と視るところの眼とはともにヱホバの造り給へるものなり」 箴言20:12 明治元訳聖書
「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの」 新改訳聖書
「聞く耳と見る目」
いつも話を横から取ってしまう人はどこにでもいる。決して、悪気はないのだ。自分の思いを全部話してしまわないと、自分が忘れられてしまうような不安を感じているのかもしれない。
会話の輪に身を置くには、相手の立場を想像する力が必要になる。その上で、自分の気持ちを目で返していくだけでも会話は成り立つ。会話の達人は、ことばではなく、目線で話をする。「聞く耳」と「見る目」は、二つともに神から与えられた賜物である。
(†心のデボーション00436)
† 心のデボーション 00437
「拙者はすべての言を信ず 賢者はその行を愼む」 箴言14:15
「未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする」 新共同訳聖書
「軽々しく信じない」
疑うことを恐れるな。軽々しく信じてはいけない。信じる前に疑い、行う前に常に考えよ。疑う力が成熟すれば信じる力も増す。
(†心のデボーション00437)
† 心のデボーション 00438
「暫く留りてのち、兄弟たちに平安を祝せられ、別を告げて、己らを遣しし者に歸れり」 使徒15:33 大正文語訳聖書
「ふたりは、しばらくの時を、そこで過ごした後、兄弟たちから、旅の平安を祈られて、見送りを受け、自分らを派遣した人々のところに帰って行った」 口語訳聖書
「餞(はなむけ)の言葉」
送別会や卒業式で「餞(はなむけ)」の言葉をおくる。
「餞」は「馬の鼻向け」のことである。昔、旅立つ人に餞別の品を贈った後に、馬の鼻を進行方向に向けて見送ったことに由来する。
旅立つ人の乗る馬を正しい方向に向けてやらなければならない。方向を誤って送り出すのは「餞」にならない。
しかし、旅立ちの方向が正しいかどうかわからずに見送らなければならないときもある。馬の鼻をもつ手が冷たい。
(†心のデボーション00438)
† 心のデボーション 00439
「汝ら春の雨の時に雨をヱホバに乞へヱホバは電光を造り大雨を人々に賜ひ田野において草蔬を各々に賜ふべし」 セカリヤ10:1 明治元訳聖書
「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」 新改訳聖書
「どてかぼちゃ」
どてかぼちゃは土手の南瓜。昔、河川敷は誰の土地でもなかったため、貧乏人の糧や飢饉に備えたものとしてどこの土手にも南瓜が植えられていたとか。
しかし、南瓜は陽が当たりすぎると割れて使い物にならなくなるので、「どこにでも転がっている役立たず」という意味だそうです。
私のうちの「どてかぼちゃ」は神が私にくださった賜物。美味しくなくても大切に育てよう。
(†心のデボーション00439)
† 心のデボーション 00440
「ヱホバ神彼をエデンの園よりいだし其取て造られたるところの土を耕さしめたまへり」 創世記3:23 明治元訳聖書
「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった」 新改訳聖書
「不毛の地を深耕する」
エデンの園から追放されたアダムが、まず、なすべきことは「自分がそこから取り出された土」を耕すことだった。そこは不毛な地で、がれきを含んで固く、人の手を拒んだ。
瞑想は、自らの不毛を深耕し、涙を流しながら、固い石を一つ一つ取り除く作業である。しかし、やがて地にいのちの息が吹き込まれる。ありがたいことだ。
「自分がそこから取り出されたところ」を耕せ。神は「いのちの息」をそこに吹きこまれる。
(†心のデボーション00440)
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