心のデボーション043

デボーション1
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† 心のデボーション 00421

「しかしてヱサイを犠牲の場によべ我汝が爲すべき事をしめさん我汝に告るところの人に膏をそそぐ可し」 Ⅰサムエ16:3 明治元訳聖書

「なすべきことは、そのときわたしが告げる」 新共同訳聖書

 「なすべきこと」

人に会っても何を話していいかわからないというのは、自分が何をしたいかがわかっていないのかもしれない。自分の人生でやり遂げたいことがはっきりしてくると、誰に会い、何を話すかもわかる。人とのかかわりを深めたいなら、自分に是非これをやりたいというものを持つことだ。

やりたいことが何かは、人に尋ねるよりも、自分に深く問うしかない。心はすでに、その問いへの神の応答を聞いている。ただ、最初それは実につまらなそうな顔をしているのだ。

(†心のデボーション00421)

† 心のデボーション 00422

「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書

「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ」 新共同訳聖書

 「祝福の継承」

ヤコブもユダも「後継の子」ではない。ヤコブは二男であり、ユダは四男である。アブラハムの祝福を受け継ぐ「長子の権利」は自動的に約束されるものではない。むしろ神の祝福は受ける資格のない者に与えられるようだ。

信仰は私に始まり、私に終わるものでもない。もし、私に始まり、私に終わるとするならば、それは真の祝福ではあるいまい。

信仰者はすべて「継承者」である。信仰は誰かから私に「継承」され、そして私から後の誰かに「継承」されていく。その不思議をなされるのは神である。

(†心のデボーション00422)

† 心のデボーション 00423

「すべての生るものに食物をあたへたまふものに感謝せよ そのあはれみはとこしへに絶ることなければなり」 詩篇136:25 明治元訳聖書

「主はすべての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで」 新改訳聖書

 「おやつ」

私は今も3時には「おやつ」を楽しむ。「おやつ」は江戸時代の「八つ刻」(午後2~4時)に小昼の間食をしたことから来ている。おやつには食事とはべつの楽しみがある。ただ、おやつは美味しいからといって食事の代わりにしてはいけない。おやつで体はつくれない。御言葉を「おやつ」がわりに楽しむのでは、その恵みを味わいつくすことはできない。

(†心のデボーション00423)

† 心のデボーション 00424

「盜人うがちて盜むなり」 マタイ6:19 大正文語訳聖書

「盗人が穴をあけて盗み出す」 バルバロ訳聖書

「ハネカクシ」

ハネカクシの中には体にアリの匂いをつけて巣の中に紛れ込んで共生し、アリの獲物を盗む種類がいる。獲物を横取りするだけでは悪いと思うのか、ハケゲアリノスハネカクシは毛束から蜜を出してアリに舐めさせるという。

ハネカクシに触れると後で皮膚がやけどのように腫れるので用心する必要がある。

同じ匂いがするからといって仲間と思うのは危険である。実は大切な蓄えを横取りする「ハネカクシ」かもしれない。

(†心のデボーション00424)

† 心のデボーション 00425

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり』との御言を記憶すべきなり」 使徒20:35 明治元訳聖書

「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」 新共同訳聖書

 「与えることのできる自分」

自分の人生は正当に認められていないという思いは寂しい。そこに「人は自分を認めるべきだ」という主張が隠されはいないか。それで、自分の意見が通らなかったりすると、つまらないことにもむきになって自分を主張したくなってしまう。

人から認められないと思う時には、自分も自分を認めていないものだ。本当に寂しいのは、人に与えることのできる自分を持っていないことではないか。

(†心のデボーション00425)

† 心のデボーション 00426

「智者の言語は刺鞭のごとく 會衆の師の釘たる釘のごとくにして 一人の牧者より出し者なり」 伝道12:11 明治元訳聖書

「知恵ある者の言葉は突き棒のようであり、その語録はよく打ち込まれた杭のようである」 フランシスコ会訳聖書

 「楔(くさび)」

「楔(くさび)を以て楔(くさび)を抜く」という。

楔は一度打ち込まれると容易には抜けない。楔を抜くには、別の楔を打ち込み、ゆるめてから引き抜けばよい。

ある「言葉」が楔のように自分に打ち込まれることがある。それは「抜く」のではなく、もうひとつの「楔」を打ち込んでみる。すると打ち込まれた言葉の根元が緩くなる。そこで引き抜けばよいかもしれない。

神の言葉は「よく打ち込まれた杭」である。この杭は抜いてはいけない。抜けば「私」というものが崩れてしまう。

(†心のデボーション00426)

† 心のデボーション 00427

「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」 詩篇127:3~4 大正文語訳聖書

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ」 新改訳聖書

 「勇士の手にある矢」

子どもは神の「賜物(たまわりもの)」であった。子どもは「勇士の手にある矢」であり、多くの子どもに恵まれることは「矢筒をその矢で満たした人」として祝福された。

だが、矢筒の矢数を誇ってはいけない。的を狙って外さない「矢」であることが肝要である。間違うと「矢」がそれを射た者を襲うこともある。

(†心のデボーション00427)

† 心のデボーション 00428

「貧者をあはれむ者はヱホバに貸すなり その施濟はヱホバ償ひたまはん」 箴言19:17 明治元訳聖書

「貧しい人に憐れみを施す者は、主に貸す人。彼が立て替えたものを、主が返してくださる」 フランシスコ会訳聖書

 「主の返済」

私は多くの人々からたくさんのものを受けている。借りっぱなしで済ませてしまったものも少なくない。返済を忘れたのではなく、どう返済して良いか分からなかったのである。しかし、御言葉によれば、神がその立て替えを返済していてくださるという。その方々は神から多くを受け取ることだろう。

(†心のデボーション00428)

† 心のデボーション 00429

「なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ」 ピリピ2:2 大正文語訳聖書

「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」 新共同訳聖書

 「思いを一つにして」

気持ちが一つになれない時、心は痛む。しかし、思うことと感じることとが相手と全く同じでなければ「一致」とは言えないのだろうか。相手との違いをはっきりさせ、それを大切にするのも「一致」ではないか。互いの意見の違いを生かそうとすれば、パウロの語る「同じ愛の心」がなくてはならない。一つはっきりしているのは、この「一致」は人からではなく神から来るのである。

(†心のデボーション00429)

† 心のデボーション 00430

「鞭をくはへざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりに之をいましむ」 箴言13:24 明治元訳聖書

「鞭を控える者は、その子を憎む者。しかし、子を愛する者は、努めてこれを懲らしめる」 フランシスコ会訳聖書

 「クランプスのお仕置き」

ドイツでは聖ニコラウス(サンタクロース)は「シャープ」と「クランプス」と呼ばれる二人の助手を連れて歩き、良い子にはシャープに命じてプレゼントを、悪い子にはクランプスに命じてお仕置きをさせるという。

「シャープ」と「クランプス」は共にサンタクロースの素敵なプレゼントである。

しかし、現代はクランプスの活躍ばかりが目立つようになってサンタクロースも戸惑っているかもしれない。

(†心のデボーション00430)

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