† 心のデボーション 00401
「なんぢはその歓樂のかはの水をかれらに飮しめたまはん」 詩篇36:8 明治元訳聖書
「あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます」 新改訳聖書
「サンタの訃報」
2015年12月日、ノルウェー紙アフテンポステンのニュースサイトにサンタクロースの訃報が掲載された。
「1788年12月12日生まれのサンタクロースがこの度死去し、今月28日に「北極の礼拝堂」で葬儀が営まれる」というもので、世界中で騒がれ、同紙は「訃報は指針に違反しており、掲載されるべきではなかった」として記事を削除した。
今、世界にはクリスマス・プレゼントばかりか、小さなケーキも食べられない子どもが激増していることから、サンタの死亡通知を出したくなったのだろうか。
(†心のデボーション00401)
† 心のデボーション 00402
「かくのごとく後なる者は先に、先なる者は後になるべし」 マタイ20:16 大正文語訳聖書
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」 新共同訳聖書
「赤犬が狐を追う」
ことわざに「赤犬が狐を追う」と言います。赤犬が狐を追うのですが、どちらも赤毛で区別がつきません。赤犬が狐を追っているのだと見ていると、実は追うのが狐で赤犬は逃げていたりします。
自分は追っているのだと思っていたのに、いつのまにか追っていたものに追いかけられています。どこで、どう入れ替わるのでしょうか。
(†心のデボーション00402)
† 心のデボーション 00403
「自己を人と異にする者はおのれの欲するところのみを求めてすべての善き考察にもとる」 箴言18:1 明治元訳聖書
「おのれを閉ざす者は口実を探し、どんな賢明な勧めにも憤る」 フランシスコ会訳聖書
「孤独な生活をする人は、自分勝手で、どんな忠告を聞いても憤る」 バルバロ訳聖書
「憤らず」
孤独を生きる人は「おのれを閉ざす者」のことではない。孤独を生きる人はどんな勧めにも耳を傾け、孤独であることに憤らない。
「どんな賢明な勧めにも憤る」のは孤独を知らないからである。
「孤独」は人を広い世界に導き、自由を約束する。豊かな関係への入口である。
(†心のデボーション00403)
† 心のデボーション 00404
「ヱホバ爾はわが燈火なりヱホバわが暗をてらしたまふ」 Ⅱサムエル22:29 明治元訳聖書
「主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます」 新改訳聖書
「私のともしび」
人は幸せよりも苦労を先取りしてしまう傾向があるようだ。自分で「ともしび」を消してやみが濃くなり、そして「暗い」と不安がる。
それは闇そのものか、それとも自らが目を閉ざしてできた闇なのか。闇そのものであれば、闇の中にも光はある。目を閉じたことからの闇なら、目を開ければよい。
好ましいのは「やみの中で食事する」ことではなく、「日の下で骨折るすべての労苦のうちにしあわせを見つけて、食べたり飲んだりすること」だ。(伝道5:17~18)
(†心のデボーション00404)
† 心のデボーション 00405
「わがたましひよヱホバを讃まつれ そのすべての恩惠をわするるなかれ」 詩篇103:2 明治元訳聖書
「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとる忘れるな」 新共同訳聖書
「感謝」
ベンジャミン・フランクリンが子どもの頃、父親がある人から豚の塩漬けをひと樽もらい、食事の度に神に感謝するので、「そんなに何度も感謝しないで、一度にひと樽分したらいい」と提案したが受け入れられなかったという。
神への感謝はその都度したい。そのほうがより多くをいただける。
(†心のデボーション00405)
† 心のデボーション 00406
「人の心は尚其疾を忍ぶべし されど心の傷める時は誰かこれに耐んや」 箴言18:14 明治元訳聖書
「人の霊は病にも耐える力があるが、沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」 新共同訳聖書
「沈みこんだ霊」
人の心には病苦を忍ぶ力がある。しかし、打ちひしがれた心は小さな病も耐えがたい。病の不安が心を沈めるのだ。
我が霊よ、健やかなれ。病の影に怯えるな。
(†心のデボーション00406)
† 心のデボーション 00407
「なんぢを創造し なんぢを胎内につくり又なんぢを助くるヱホバ如此いひたまふ わがしもベヤコブよわが撰みたるヱシュルンよおそるるなかれ」 イザヤ44:2 明治元訳聖書
「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐るな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ」 新共同訳聖書
「人格」
英語で「人格」をあらわすpersonality の語源はラテン語の「ペルソナ persona (仮面)」である。
古代ギリシャの俳優は野外劇場で仮面をつけて演じるが、仮面には共鳴装置のように働く工夫がなされていて、役者の声を最後列の観客席まで響かせたという。
「人格 personality」は遠くの他の人にも、声をはっきり伝える「拡声器」のようなものかもしれない。神が造られ私にくださったもの。
(†心のデボーション00407)
† 心のデボーション 00408
「忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」 ロマ5:4 大正文語訳聖書
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」 新改訳聖書
「忍耐」
ギリシャ語で「忍耐」は「重荷の下にとどまる」である。歯を食いしばって耐えるというよりも、重荷の下にじっと座り、希望という心の声が聞こえてくるのを待つという静かな世界である。
「奇跡と不思議と力あるわざ」は、そこから生まれる。(Ⅱコリント12:12)
重荷の下にとどまり続けることが、品性を銀のように練り上げる。神の人で、忍耐を知らない人に会ったことはない。
(†心のデボーション00408)
† 心のデボーション 00409
「イサク、ヤコブを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書
「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ」 新改訳聖書
「神の祝福」
「アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ」と続く。ヤコブはイサクの長子ではない。イサクにはエソウという長男がいたが、エソウは長子の権利を軽んじ、一杯の煮物と交換してヤコブに渡してしまう。(創世記25:27~34)
「長子の権利」にこだわり、きわどい方法で手に入れるヤコブの、必ずしもほめられない信仰を巻き込みながら神の「祝福」は刻まれていく。そのようにして神は「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」(出エ3:6)と呼ばれる。
信仰が見出すのは「神」ではなく、「私の神」である。
(†心のデボーション00409)
† 心のデボーション 00410
「よろづのものの目はなんぢを待 なんぢは時にしたがひてかれらに糧をあたへ給ふ」 詩篇145:15 明治元訳聖書
「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます」 新共同訳聖書
「青菜は男に見せな」
「青菜は男に見せな」という。青菜は茹でるとかさが減り、台所に入ったこともない男が「ごまかした」などと疑いをかけられないように、見せない方がよいという意味だそうである。
しかし、私は妻の愛情と読みたい。男は畑から青菜を「たいした収穫だ」と家に持ち帰る。料理をする妻はそれが茹でればわずかの量にすぎないことを知っているが、男の喜びを傷つけないように「ほんの一口よ」とは言わないのだ。
男が昼間の労働から持ち帰るものを「こんなに少ない」などと言ってはいけない。
(†心のデボーション00410)
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