心のデボーション040

デボーション1
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† 心のデボーション 00391

「ヤコブ目をさまして言けるは誠にヱホバ此處にいますに我しらざりきと」 創世記28:16 明治元訳聖書

「ヤコブは眠りからさめて、『まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった』と言った」 新改訳聖書

 「神ここにいます」

地に神の不在の場所はどこにもない。それは恵みの及ばぬ所はどこにもないという意味である。

(†心のデボーション00391)

† 心のデボーション 00392

「神イスラエルの子孫を眷み神知しめしたまへり」 出エジプト2:25 明治元訳聖書

「神はイスラエルの子らを顧み、彼らにご自分を示された」 フランシスコ会訳聖書

 「神顧み給う」

新共同訳聖書は「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」と訳す。

神が私を御心に留められる時、ご自分を私に示される。私が神を知るのは、神が自らを現し給うことによる。「自らを現す」と「知らしめる」は同じ意味である。

(†心のデボーション00392)

† 心のデボーション 00393

「イエス彼に言ひたまふ『何を望むか』かれ言ふ『この我が二人の子が汝の御國にて、一人は汝の右に、一人は左に坐せんことを命じ給へ』」 マタイ20:21 大正文語訳聖書

「イエスが彼女に、『どんな願いですか』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい』」 新改訳聖書

 「何を望むか」

目標を高くすることで、窮地を脱することがある。

母サロメとゼベダイの息子ヤコブとヨハネは天の国で「一人をイエスの右に、一人を左に座する」ようイエスに願った。彼らは「高き」を求めた。しかし、それはむしろ彼らを「低き者」にした。

目標の低さは成長を妨げる。

天を仰げ。「願い」はそこから来る。

(†心のデボーション00393)

† 心のデボーション 00394

「もし誇るべくは、我が弱き所につきて誇らん」 Ⅱコリント11:30 大正文語訳聖書

「どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」 新改訳聖書

 「弱さを誇る」

自分に誇れるものを感じるのは良いことだ。しかし、自分への評価が他人の自分へのそれよりも高くなってしまうのは困る。それにもめげずに自分を高く評価する人が誇り高い人なのだろう。しかし、それでは周囲から一人浮いてしまう。

誇るものが「自分弱さ」であれば問題はない。しかし、誇り高い人が自分の弱さを誇ると、うそにしか聞こえない。その人は「弱さ」を誇っているのではなく、「弱さを誇る自分」に酔っているのだ。

(†心のデボーション00394)

† 心のデボーション 00395

「汝もし大なる民となりしならば林に上りゆきて彼處なるペリジ人およびレバイム人の地を自ら斬ひらくべし」  ヨシュア17:15 明治元訳聖書

「もし、あなたが数の多い民なら、森に行ってペリジ人やレファイム人の土地を切り開けばよい」 フランシスコ会訳聖書

 「あともそとも言う」

「あともそとも言う」(義経記)というのは何か一言ぐらいを言うことを指すのだそうである。とりあえず何かを言うことで、たいした内容でもない。何故「あ」で、何故「そ」なのかは、よくわからない。

しかし、行き詰ったら、とりあえず言葉を出してみる。「あともそとも」の行動から「新しい地」が開けることもある。

(†心のデボーション00395)

† 心のデボーション 00396

「惰者よ蟻にゆき其爲すところを觀て智慧をえよ 蟻は首領なく有司なく君主なけれども 夏のうちに食をそなへ 収穫のときに糧を斂む」 箴言6:6~8 明治元訳聖書

「怠け者よ、蟻の所に行き、そのすることを見て、知恵ある者になれ。蟻には頭も、監督も支配者もない。しかし、夏のうちに食べ物を蓄え、刈り入れ時に食糧を集める」 フランシスコ会訳聖書

 「サバイバル」

ブラジル航空の旅客機にはジャングルに不時着したときに、密林で救助を待つ間生き延びるために必要な用品のセットが積まれ、スチュワーデスは水のつくり方からピラニアの料理法まで訓練を受けているという。

安全な土地で暮らすと、生き延びる方法を忘れてしまう。

乗っている飛行機は安全でも密林の上を通過していることを忘れるべきではない。

(†心のデボーション00396)

† 心のデボーション 00397

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書

「悲しむ人は幸いである、その人は慰められるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「幸い」

事故で全身の機能を失った人が、残されたわずかの機能を生かして美しいものを創る。事故に遭わなかったら、その才能は眠ったままだったかもしれない。あきらめないで、自分に残された機能に工夫を重ねていくうちに、隠れた才能が働き始めたのだと思う。

身体の機能を失うのが不幸でないはずはない。しかし、何一つ失っていないのに、それを生かす幸せも慰めも感じられないのは、もっと不幸だ。

(†心のデボーション00397)

† 心のデボーション 00398

「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし」 ヨハネ15:13 大正文語訳聖書

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」 新共同訳聖書

 「大きな愛」

「大きな愛」には、それを実行する困難と同量の受けとる側の困難も発生する。神はその困難を人に与えられる。しかし、困難であればあるほど、愛を求める力は大きくなる。

(†心のデボーション00398)

† 心のデボーション 00399

「うたふもの踊るもの皆いはん わがもろもろの泉はなんぢの中にありと」 詩篇87:7 明治元訳聖書

「彼らは踊りながら歌う、『わたしの命の源はみなあなたのうちにある』」 フランシスコ会訳聖書

 「いのちの泉」

「わたしの命の源」は「私の泉」(バルバロ訳)である。

「いのちの泉」はとめどなく湧き上がる。だが、一滴の水も流れないときがある。思いが生まれる源にゴミがつまったのかもしれない。しかし、湧き上がる水の力がゴミを押し流してくれるまで、つまったものを無理に取り除こうとしないことだ。それにも何か意味があるに違いない。

(†心のデボーション00399)

† 心のデボーション 00400

「御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり」 エペソ1:5 大正文語訳聖書

「神はみ旨の善しとするところに従って、わたしたちがイエス・キリストを通して、ご自分の子となるよう、あらかじめ定めておられたのです」 フランシスコ会訳聖書

 「あらかじめ定める」

「あらかじめ定める」は「前もって考える、あらかじめ備える」の意味である。

私たちが神の子とされたのは、神がまえもって考え、そのように備えてくださったことによる。

(†心のデボーション00400)

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