心のデボーション039

デボーション1
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† 心のデボーション 00381

「ヤハよなんぢの懲めたまふ人なんぢの法ををしへらるる人は さいはひなるかな」 詩篇94:12 明治元訳聖書

「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は」 新共同訳聖書

 「真理自身」

「消し去るべき形象(かたち)や言語(ことば)によるのではなく、真理自身が直接に、そのあるがままのものに由て教えるその人はげに幸福な人である」(トマス・アケンピス「キリストのまねび」 内村達三郎訳)

真理そのものは、常に私の前にある。だが、私はいつも真理そのものに直接、あるがままに教えられていない。その僅か一滴でも受けるなら、私はすべてを受けたのであり、その幸せは「私」を超える。

(†心のデボーション00381)

† 心のデボーション 00382

「ヱホバの言彼にのぞみて曰く此者は爾の嗣子となるべからず汝の身より出る者爾の嗣子となるべしと」 創世記15:4 明治元訳聖書

「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。『その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない』」 新改訳聖書

 「私より出(いづ)る者」

神はアブラハムとサラに「汝の身より出(いづ)る者汝の嗣子(よつぎ)となるべし」(創世記15:4)と語られる。神の祝福は「私」の「身より出るもの」にある。いのちはいのちを生む。「私」といういのちの生み出すものだけが「私」を継ぐ。

(†心のデボーション00382)

† 心のデボーション 00383

「永久に在す神は住所なり下には永遠の腕あり敵人を汝の前より驅はらひて言たまふ滅ぼせよと」 申命記33:27 明治元訳聖書

「いにしえの神は、避け所、とこしえの腕は、あなたを支える」 フランシスコ会訳聖書

 「免(めん)の石」

南阿蘇の外輪山の中腹に岩壁に挟まれた「免の石」と呼ばれる大岩がある。重さ1トンもある大岩だが宙に浮いて見え、落ちそうで落ない。落ちることを免れた石からその名がある。「免の石」を見るには急な崖を登らなければならず、一苦労する。

不思議な力が石にその場所を与えるように、「私」も落ちそうで落ない。神が私の両脇を支えてくださっているに違いない。

(†心のデボーション00383)

† 心のデボーション 00384

「たれかおのれの過失をしりえんや ねがはくは我をかくれたる愆より解放ちたまへ」 詩篇19:12 明治元訳聖書

「誰が自分の過ちを悟ることができようか。隠れた罪から、わたしを清めてください」 フランシスコ会訳聖書(詩篇19:13)

 「過ちを悟る」

本当に自信のある人は間違いを認めることができる。過ちを認めても自分が失われないことを知っているからだ。

「過ち」を知ることは、それを犯すよりも難しい。

(†心のデボーション00384)

† 心のデボーション 00385

「幸福ある日には樂め 禍患ある日には考へよ 神はこの二者をあひ交錯(まじへ)て降したまふ 是は人をしてその後の事を知ることなからしめんためなり」 伝道7:14 明治元訳聖書

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」 新改訳聖書

 「苦楽の種」

「楽は苦の種、苦は楽の種」と言う。楽の中に苦があり、苦の中に楽があり、苦楽は相伴って来る。

しかし、楽の中に生じる苦の種も、苦の中に生じる楽の種も、余りに小さくて見つけにくい。あらかじめ除くことも、育てることも簡単ではない。ただ、「今」というものが「種」を含んでいる。芽が出たら、どちらの芽も育ててみたい。神は「楽しみ」と「沈思」を「あひ交錯(まじへ)て降したまふ」。

(†心のデボーション00385)

† 心のデボーション 00386

「而してアブラハム牛の群に趨ゆき犢の柔にして善き者を取りきたりて少者に付しければ急ぎて之を調理ふ」 創世記18:7 明治元訳聖書

「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた」 新共同訳聖書

 「ご馳走」

ご馳走をいただくと心が豊かになる。

「馳走」は「馳せ」「走る」と書く。もてなす為に駆け回ってくれたことに「ご馳走様でした」と言いたい。

(†心のデボーション00386)

† 心のデボーション 00387

「彼が踐たりし地をもて我かれとかれの子孫に與ふべし」 申命記1:36 明治元訳聖書

「わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする」 新共同訳聖書

 「オドメーター」

自動車の走行距離をはかる機械を「オドメーター odometer」という。odo は「道」を意味するギリシャ語「ホドス」からきたもので、「道の計測器」を意味する。

人生の「オドメーター odometer」は、走った距離ではなく、歩いた道の記録であろう。

(†心のデボーション00387)

† 心のデボーション 00388

「義をおひ求めヱホバを尋ねもとむるものよ我にきけ なんぢらが斫出されたる磐となんぢらの掘出されたる穴とをおもひ見よ」 イザヤ51:1 明治元訳聖書

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」 新改訳聖書

 「スランプ」

スランプ slump はどぶなどに落ちたときの音をあらわす言葉である。どぶに落ちたのだ。

スランプだなと感じた時には、自分の原点に戻るのもよい。焦って、小手先の変化をおこそうとすると、かえって、歯車がかみ合わず、スランプを深めるかもしれない。

聖書は、「自分の切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とすすめる。自分の基本動作を確認し、それに徹してみると、スランプの本当の原因が現われてくることもある。再び自分に流れが感じられれば、スランプも消えている。

(†心のデボーション00388)

† 心のデボーション 00389

「汝らは罪と鬪ひて未だ血を流すまで抵抗しことなし」 へブル12:4 大正文語訳聖書

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」 新共同訳聖書

 「母親離れ」

母親離れの出来ていない男性の最大の欠点は、自分で責任を負わないことである。才能も能力もあるのだが、解決の難しそうな問題はすべて避けて通りたい。一見、失敗をしない堅実そうな人に見えるが、失敗しても両親が尻拭いしてくれる範囲内に身を置くという、独特な処世術に過ぎない。母親から分離するには、良い子の殻を脱ぎ捨て、悪の力と対決する必要がある。内なる悪との戦いが自己の世界を少しずつ形成していく。

(†心のデボーション00389)

† 心のデボーション 00390

「神いひ給ふ 『われ惠の時に汝に聽き、 救の日に汝を助けたり』 と。視よ、今は惠のとき、視よ、今は救の日なり)」 Ⅱコリント6:2 大正文語訳聖書

「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 新共同訳聖書

 「キューピー人形」

昔から、「チャンス」はキューピー人形のように前髪だけで後髪がないと言われてきた。だから前から来た時に捕まえないと、通り過ぎてからでは手が滑ってつかめないという。

しかし、困ったことに「チャンス」はキューピー人形のように、それと分かる形をしていない。後ろ姿はキューピー人形そのもので、それと気づいた時には、お尻を振り振り行ってしまう。しかし、方法はある。「チャンス」は「今」という瞬間にしか現われないので、そこを見張っていればよいのである。だが、どういうわけか、「チャンス」は、待つと姿を現さない。忘れていると、ヒョイと顔を出す。

(†心のデボーション00390)

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