心のデボーション038

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† 心のデボーション  00371

「人、全世界を贏くとも、己をうしなひ己を損せば、何の益あらんや」 ルカ9:25 大正文語訳聖書

「たとえ全世界を手に入れても、自分自身を滅ぼしたり、失ったりするなら、何の益があるだろうか」 フランシスコ会訳聖書

 「失ってはならないもの」

組織に属することが生きることの全てである人は、組織から見捨てられる不安に怯える。社会的アイデンティティを失うまいとして組織にしがみつく。

しかし、現代の組織が必要としているのは、組織から離れても生きていける人ではないだろうか。

組織から離れて、裸の自分になってみると、失ってはならないものが何かわかる。「全世界より尊いもの」は、自身の内にある。

(†心のデボーション00371)

† 心のデボーション  00372

「ヱホバ宣給く 我手はあらゆる此等のものを造りてこれらの物ことごとく成れり 我はただ苦しみまた心をいため我がことばを畏れをののくものを顧みるなりと」 イザヤ66:2 明治元訳聖書

「主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」 新改訳聖書

「わたしが目を留めるのは何か。それは貧しい人、心砕かれた人であり、わたしの言葉を畏れ敬う人」 フランシスコ会訳聖書

 「言葉へのおののき」

「謙遜」は腰の低さをいうのではない。言葉の不思議におののく者のことである。彼は「己が貧しさに心砕かれ」、神の言葉への畏敬に身をかがめる。日々訪れる神の言葉よ、何ゆえに貧しき者に宿るや。

(†心のデボーション00372)

† 心のデボーション  00373

「わが愛する兄弟よ、聽け、神は世の貧しき者を選びて信仰に富ませ、神を愛する者に約束し給ひし國の世繼たらしめ給ひしに非ずや」 ヤコブ2:5 大正文語訳聖書

「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか」 新改訳聖書

 「ところ貧乏」

群馬には「ところ貧乏」という言い方がある。その土地に暮らすからには避けられない不便や負担があり、それは受け入れるしかないことを言う。

信仰にも「ところ貧乏」があるが、この貧しさには豊かさが結ばれている。「ところ貧乏」は「ところ富者」でもある。

(†心のデボーション00373)

† 心のデボーション  00374

「われを汝の心におきて印のごとくし なんぢの腕におきて印のごとくせよ 其の愛は強くして死のごとく 嫉妬は堅くして陰府にひとし その熖は火のほのほのごとし いともはげしき熖なり 」 雅歌8:6

「わたしを刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い」 新共同訳聖書

 「薬指」

「薬指」はラテン語 digitus annularis で「結婚指輪をする指」と呼ばれる。古代から「薬指」には太い血管があり心臓につながっていると考えられ、古代ローマでは結婚する男女は相手のいのちとつながることへの証として左手の薬指に指輪をつけた。

愛は「死のように強く」、「すさまじい炎のように熱く」、「大水もその愛を押し流すことができない」。(雅歌8:6~7)

(†心のデボーション00374)

† 心のデボーション  00375

「請ふ なんぢら乾葡萄をもてわが力をおぎなへ 林檎をもて我に力をつけよ 我は愛によりて疾わづらふ」 雅歌2:5 明治元訳聖書

「私は愛に病んでいるのです」 新改訳聖書

 「屋(おく)烏(う)の愛」

あまりに深く愛するとその人の家の屋根にとまったカラスも慕わしく感じられるのが「烏(う)の愛 (愛、屋烏に

及ぶ)」(説苑)である。

「屋(おく)烏(う)の愛」は愛する者には至福の思いだが、愛される者には必ずしも気持ちのよいものではない。その居心地の悪さから壊れることも少なくない。「烏(う)の愛」は逆転すると、屋根の烏が不吉な鳥に見えるばかりか、花でさえ忌まわしく見えるようになるのではないかという予感もある。

(†心のデボーション00375)

† 心のデボーション  00376

「もろもろの民よきけ賤きも貴きも富るも貧きもすべて地にすめる者よ なんぢらともに耳をそばだてよ」 詩篇49:2 明治元訳聖書

「すべての民よ、聞け。世に住むすべての者よ、耳を傾けよ。身分の低い者も、高い者も、富んだ者も、貧しい者も」 フランシスコ会訳聖書(詩篇49:1~2)

 「魂の高所平気症」

高層マンションから子どもの転落事故が起こっている。「高所平気症」だという。

高層住宅で育てられた子どもは高い所になれてしまい平気でベランダで遊び事故を起こす。4歳くらい迄に「高さ」の感覚を身につけ「高所平気症」を治さないと、それ以後は治らないという。

人間は、あまりの高さには不安を感じる。その身体感覚は「高みにのぼりたがる魂」への一つの警告である。魂の「高所平気症」は精神のバランスを崩すので早期に気づく必要がある。

人の内には「身分の低い者も、高い者も、富んだ者も、貧しい者」たちが住んでいる。すべての関わりにおいて神の声を聞くなら、転落事故はおこるまい。

(†心のデボーション00376)

† 心のデボーション  00377

「わが父母われをすつるともヱホバわれを迎へたまはん」 詩篇27:10 明治元訳聖書

「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」 新共同訳聖書

 「わが父母われをすつるとも」

人から「見捨てられた」と感じるのはさみしい。そのさみしさから心にもないことをいったりする。そして、もっとさみしく憂うつになる。

さみしさから愛を欲しがる人は、他人を拘束しながら、自分が相手から自由を奪っていることに気がつかない。

さみしさから解放されるには、自分を見出すことだ。「私の父、私の母が、私を見捨てるとき」にも神は「私を取り上げて」くださる。そのところで私は「私」に出会う。

(†心のデボーション00377)

† 心のデボーション  00378

「困苦にあひたりしは我によきことなり 此によりて我なんぢの律法をまなびえたり」 詩篇119:71 明治元訳聖書

「さげすまれたのは、わたしにとって善いことでした、あなたの掟を学ぶためには」 フランシスコ会訳聖書

 「真理の痛み」

真理そのものが、直接、あるがままに語るとき、私は痛む。真理は常に痛い。しかし、その痛みによって、私は神の法を知る。

(†心のデボーション00378)

† 心のデボーション  00379

「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25 明治元訳聖書

「心に憂いのある人はうなだれるが、親切な言葉は喜びをもたらす」 フランシスコ会訳聖書

 「親切」

親切が相手をぬきさしならぬ所に追い詰めることがある。その人が生きていけるように、親切をひかえなければならない時がある。そのとき人は本当に親切な言葉をかけている。それが「喜び」をもたらすのはずっと後になってからである。

(†心のデボーション00379)

† 心のデボーション  00380

「いと高き處には榮光、神にあれ。 地には平和、主の悦び給ふ人にあれ」 ルカ2:14 大正文語訳聖書

「いと高き天には、神に栄光、地には、み心にかなう人々に平和」 フランシスコ会訳聖書

 「荒野(あらの)の果てに」

クリスマスが近づき、街角で「賛美歌106番 荒野(あらの)の果てに」を聞く。

荒野(あらの)の果てに
夕日は落ちて
たえなる調べ
天(あめ)より響く
グロリア イン エクセルシス デオ
グロリア イン エクセルシス デオ

繰り返しの「グロリア イン エクセルシス デオ」は、ラテン語でGloria in excelsis Deo 「いと高きところに、神に、栄光あれ」(ルカ2:14)である。

「荒野(あらの)の果に」は、フランス語で「 Les Anges dans nos Campagnes(レ・ザンジュ・ダン・ノ・カンパーニュ「我らが牧場(野辺)にて天使が」)の意味である。フランス語の campagne は、「田舎・田園地帯・地方」に加えて「戦場」の意味もあるという。

戦場にても、天使たちが天より聖歌をうたい始め給うか。

(†心のデボーション00380)

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