心のデボーション037

デボーション1
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† 心のデボーション 00361

「彼は筋力と尊貴とを衣とし且のちの日を笑ふ」 箴言31:25 明治元訳聖書

「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ」 新改訳聖書

 「後の日に」

バッハやモーツアルトなど、当時の貴族社会では白いカツラを使用した。元々カツラは黒かったが白のほうが美しいとされ、流行したという。カツラを白くするには小麦粉を髪粉として使用した。その方法は顔を布で覆い、髪粉を上に放り投げ落ちてくるのを頭で受けたという。あまりに頻繁に大量の小麦粉を使用したので食糧危機が心配されたくらいであった。小麦粉が古くなると汗と混じって悪臭が発生し、それを誤魔化すために頭に香水をまいたという。カツラが蒸れるので毛を剃る者もいたらしい。

人の行為には後の時代になると滑稽に思えるものが含まれている。百年もすれば、人は今の私たちが可笑しさを感じないで行っていることの幾つかを笑うだろう。

箴言の賢い妻(31:10~31)のように、「今」なすべきことを知るなら、「ほほえみながら後の日を待つ」こともできるのだろうか。

(†心のデボーション00361)

† 心のデボーション 00362

「茲にダニエルはその詔書を認めたることを知りて家にかへりけるがその二階の窓のヱルサレムにむかひて開ける處にて一日に三度づつ膝をかがめて祷りその神に向て感謝せり是その時の前よりして斯なし居たればなり」 ダニエル6:10 明治元訳聖書

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」 新改訳聖書

 「祈りのかたち」

ダリヨスは、自分を神とし、自分以外のいかなる神々にも祈ることを禁止した。それにもかかわらず、ダニエルは「日に三度、ひざまずいて」イスラエルの神に祈ることを止めなかった。これが人に知れて、ダニエルは窮地に追い詰められる。

ダニエルは人に知られないように祈りのかたちを変えることもできた。しかし、信仰はかたちと深く結びつき、変えることのできないものであるのをダニエルは知っていた。祈りは形をもつことによって、その人を整えるのである。

(祈りはどういう形であっても、また、形なしでもできる。祈りは形ではない。しかし、ダニエルは祈りのかたちを変えることがダリヨスに誤解を与えることを恐れたのかもしれない)

(†心のデボーション00362)

† 心のデボーション 00363

「またおのが慾のために食をもとめてその心のうちに神をこころみたり」 詩篇78:18 明治元訳聖書

「彼らは欲するままに食べ物を求め、心のうちで神を試みた」 新改訳聖書

 「応量器」

禅宗の修行僧が使用する食器を「応量器 梵語パートラPatra」(応量器は主に曹洞宗の呼び方で、臨済宗では持鉢、黄檗宗では自鉢)と呼ぶ。入れ子状の六枚の容器で、一番大きな器に粥を受け、汁物、漬物、おかずを定められた器に受ける。最後の一枚は粥の器の下に置く。托鉢では粥の器で布施を受ける。

自分に十分な量の食物だけを受けるのが「応量器」である。

すべての人間が自分の「応量器」をもって生きれば、世界に飢餓はなくなる。

聖書は「欲するままに食べ物を求める」ことは「心のうちで神を試みる」ことだという。

(†心のデボーション00363)

† 心のデボーション 00364

「なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首にあぶらをそそぎたまふ わが酒杯はあふるるなり」 詩篇23:5 明治元訳聖書

「あなたは敵の見ている前で、わたしのために食事を調え、わたしの頭に香油を注がれた」 フランシスコ会訳聖書

 「調えられた食卓」

神は「調えられた食卓」に私を招かれる。その葡萄酒は「心を楽しませ」、香油は「顔をつややかにし」、パンは「魂を力づける」。(詩篇104:15)

私は朝ごとに、神の食卓に着き、みことばの味わいを楽しむ。

(†心のデボーション00364)

† 心のデボーション 00365

「ヱホバよわれを糺しまた試みたまへ わが腎とこころとを錬きよめたまへ」 詩篇26:2 明治元訳聖書

「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください」 口語訳聖書

 「思いを練り清める」

神が「私の心と思い」を探られるお方である。(エレミヤ17:10)そこで、私は「私の心と思い」を探ることに関心を持った。

「私の心と思い」の中で神と語り合うことが許されていると知って「私の思いと心を練り清めてください」と祈ることを学んだ。

(†心のデボーション00365)

† 心のデボーション 00366

「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」 Ⅰコリント13:12 大正文語訳聖書

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」 新改訳聖書

 「鏡の自分」

自分の問題に関しては、いつも、思わぬところでそれを発見する。鏡の中に自分とは違う人物を見て、それが自分であることに気づくような驚きがあり、思わずうろたえてしまう。

しかし、鏡の自分から目をそらせてはいけない。なぜなら、この驚きの中で自分を知ることになるからである。

自分とその問題を知ることによって、人は「私を完全に知られる」神に近づく。

(†心のデボーション00366)

† 心のデボーション 00367

「われはくるしみ且ともし 主われをねんごろに念ひたまふ なんぢはわが助なり われをすくひたまふ者なり ああわが神よねがはくはためらひたまふなかれ」 詩篇40:17 明治元訳聖書

「私は貧しい者なのに、主は私に心を配られる。私の助け、私の逃れ場であるあなたに、ああ神よ、ためらいたもうな」 詩篇40:18 バルバロ訳聖書

 「赤貧洗うが如し」

あまりの貧しさを「赤貧洗うが如し」という。「赤」は「全くの、明らかな」を意味し、「洗うがごとし」は洗い流すように何もない様を示す。英語では be desperately poor 「絶望的貧しさ」である。

魂の貧しい者なのに、神は私に心を配られる。私が自分に対して何の関心も払わないところに神は関心をもたれる。「貧しさ」は「赤貧洗うが如し」を意味するものではないのかもしれない。

(†心のデボーション00367)

† 心のデボーション 00368

「汝虚妄の風説を言ふらすべからず惡き人と手をあはせて人を誣る證人となるべからず」 出エジプト23:1 明治元訳聖書

「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人になってはならない」 新改訳聖書

 「偽りのうわさ」

2015年に、ツイッターでスマートフォンの画面上の「1」を2回押した後に「0」を押して発信すると通信速度が速くなるというデマが広がった。当然、そんな事実はなく、そのまま110番につながるだけだが、警察の業務が妨げられるほどの被害がでた。110番には発信者が記録されるので、後ほど「お尋ね」が来る事になる。

「デマ」はドイツ語Demagogie の略で、語源はギリシャ語 δημαωγός デマゴゴス で、この語は 「δημοσ  民衆+ ἄγειν 導く」から来る。「根拠のないうわさ」であり、「民衆を導く煽動的な嘘」である。

「偽りのうわさ」は真実よりも伝わるのが早い。

(†心のデボーション00368)

† 心のデボーション 00369

「なんぢの子を懲せ さらば彼なんぢを安からしめ 又なんぢの心に喜樂を與へん」 箴言29:17 明治元訳聖書

「お前の子を懲らしめよ。そうすればお前は安らかになり、彼はお前の心を喜びで満たす」 フランシスコ会訳聖書

 「叱る」

何が原因だったのか、小学校の先生に顔を叩かれたことがある。叱られたことが少しも悲しくなくて、むしろ懐かしく思い出される。何があっても叱らない親は「親であることを感じさせる瞬間」を子どもから奪っているのかもしれない。だからといって、叱ってばかりいる親は、やはり、子どもに親であることを感じさせない。叱ることが悲しみの記憶にしかならないのは、それが愛からのものではないからではないか。

(†心のデボーション00369)

† 心のデボーション 00370

「心のうちの隱れたる人、すなはち柔和、恬靜なる靈の朽ちぬ物を飾とすべし、是こそは神の前にて價貴きものなれ」 Ⅰペテロ3:4 大正文語訳聖書

「むしろ、内なる自分を、朽ちることのない飾り、すなわち柔和で淑やかな心で装いなさい。これこそ神の前に、まことに尊いものです」 フランシスコ会訳聖書

 「ルーティーン」

ラグビーの五郎丸歩さんはプレースキックを蹴る直前に両手を組み独特のルーティーン・ポーズをとる。左手の人差し指、右手の人差し指、中指、薬指を立てるのだという。キックを蹴る前にはボールを2回回して芝に2回軽く叩いてセットし、3歩下がって2歩右に移動した後にキックする。

スポーツ選手のルーティーン Routineは最高のコンディションに自分を整えるためである。それならば無意識の世界を整えるためのルーティーンというものもあるに違いない。

(†心のデボーション00370)

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